|
2011年5月5日(金)
今、岩手県一関市の世嬉の一酒造が運営する世嬉の一酒の民俗文化博物館にいます。
鬼瓦がありました(写真①)。世嬉の一酒造という会社は大正7年の創業ですから、その頃に酒蔵の屋根に使われたものです。平成12年に屋根を改修したときに降ろしたものです。「左」、「サ」という字が刻まれています。後で分かることですが、この会社の前身は横屋酒造店と思われます。そうなると、鬼瓦の「サ」は「酒」の「サ」だと思われますが、違うかもしれません。 御用袋です(写真②③)。 真っ黒い顔の鬼のような面がありました。かまどの神様だそうです。かまどの神様の御札を見たことはありますが、こういう面を見たのは初めてです(写真④⑤)。
入館したときに紹介した「まゆ玉」です(写真⑥)。餅花の一種です。
薦被りの樽酒です(写真⑦)。樽酒はとてもおいしいのですが、滅多に口に入る機会がありません。芳醇無比の樽酒を飲んでみたいですね。値段も高いですが・・・。 この箱は何でしょう。酒を瓶に詰める道具でしょうか(写真⑧)。 蔵人の組織です(写真⑨)。戦前の呼び名ですから今では変わっているでしょう。やはり、精米から始まる各工程に責任者がいると言うことです。当たり前ですが。 さて、展示が変わってこう言うところにやってきました。帳場、今で言えば管理事務室と言ったところでしょう(写真⑩)。興味深いものがいろいろありますから、例によって詳しく紹介しましょう。 これは「醸芳」と書かれた扁額です。明治13年の何かの折りに書かれたものです(写真⑪)。 この解説を読むと、今見ている部屋はどうやら杜氏に与えられた特別な部屋だったようです(写真⑫)。
皇室に献上される酒を酒樽に詰めている写真です(写真⑬)。服装からして違います。 これはそのときの樽作りの様子です(写真⑭)。幕を張り、正装して樽を作っています。 これが実際の献上品です。昭和天皇が大正時代に摂政宮だった頃の話です(写真⑮)。 この扁額の真ん中の字は何と読むのでしょう。「肴」だとすると「別肴天」ですが、意味不明です。「有」かもしれません。こういう字体の訓練を若いときにしておけばよかったなとつくづく思います(写真⑯)。 随分にぎやかな神棚です(写真⑰)。 こういう紙を切り抜いた飾りを何と言ったでしょう(写真⑱)。 中央は歳徳神、右は福徳守護神で大国様と恵比寿様です。歳徳なんて知らない人が多くなりました。 安倍晴明で有名な陰陽道に由来する神様ですが、陰陽道自体が明治になって、ただの民間迷信だとして政府に禁止されたため神様の方もすっかり忘れられてしまいました。
今でも高島易断などを見れば、八角形の図に今年の恵方はここというような記事があります(写真⑲)。
続く |
第17回大旅行(2011年4月)
[ リスト | 詳細 ]
|
2011年5月5日(金)
今、岩手県一関市の世嬉の一酒造が運営する世嬉の一酒の民俗文化博物館にいます。
再び酒造りの話になりました。これは唐箕です。まさか、造り酒屋が米作りから手掛けていたとは思えませんが、資料として展示しているのでしょう(写真①)。 たくさんのザルがあります(写真②)。ものを運ぶときに使うのですが、具体的にどの工程の時というのは分かりません。 ここにある樽は木の地色をしていますが、なぜかこの樽だけが赤いのです。何か特別なものを入れたのでしょう(写真③)。 これは汲み出し桶という名が付いています(写真④)。 こういう張り紙がありました(写真⑤)。やや抽象的な書きぶりですが、どうも岩手里のお祭りで、稲作の神様、畑作の神様、酒の神様、山の神様が降りてきてにぎやかに盛り上がるようです。稲作の神様は山盛りの餅一つ一つに命の力を授け、これを人々に配ってくれるのだそうです。 この臼と杵で作ると言うことでしょうか。いやいや、ここは餅屋ではありませんし、先ほどの解説では、臼と杵で籾摺り、つまり、籾付きの米を玄米にする作業をすると言うことでした(写真⑥)。 この巨大な箱には「待ち桶、槽」という名がついています(写真⑦)。 仕込み桶からこの待ち桶に醪(もろみ)を移し、ここから柄杓でくみ上げて込み桶に入れ、更に酒袋に詰めて圧搾機にかけるという作業をします(写真⑧)。 さて、これは何でしょう(写真⑨)。解説を見落としたので分かりません。 これは2種類の仕込み桶です。奥の緑色のものは現在のもの、手前の木製の桶は昔使われていたものです(写真⑩)。 この仕込み桶は菰(こも)をまいていますが、理由は後で分かるように、桶の中の温度を14度前後に保つためです(写真⑪)。 仕込みの解説です。一度にやるのではなく、三段仕込みでやります。初添え→踊り(1日休み→仲添え→留め添えの順です(写真⑫)。 少しぶれてしまいましたが、初添えと踊りの解説です(写真⑬)。酒母というのはアルコール発酵させる清酒酵母を大量に作ったものです。乳酸の名が出てきますが、雑菌の繁殖を抑える働きをします。 一方、麹は酒母の働く前段階、米のデンプンを糖分に変える働きをするのです。初添えでは酒母の酵母や乳酸が薄まりすぎないように最初は少しだけ仕込み、一日おいて酵母が増殖するのを待って次の仕込みをすると言うことです。
次は仲添え、留め添えの解説です(写真⑭)。これを読むと米からアルコールが造られていく過程がよく分かります。発酵が終わるのに約1ヶ月掛かるそうです。 さて、発酵が終わると、出来上がった醪(もろみ)を搾って酒をとる行程に入ります。槽掛けとそれに続く滓(おり)引きです(写真⑮)。 槽掛けの工程の内、これが酒袋です(写真⑯)。 これが酒袋を詰め込んで上から圧力を掛けて搾る道具です(写真⑰⑱)。これは近代的な機械式ですが、江戸時代から近年までは巨大なてこを使って人力で搾っていました。 ここから搾られた酒が出てきます(写真⑲)。搾りたての日本酒、飲んでみたいですね。
槽掛の解説です(写真⑳)。この工程で酒袋に残ったものが酒粕です。 次に行う滓引きの解説です(写真21)。 続く |
|
2011年5月5日(金)
今、岩手県一関市の世嬉の一酒造が運営する世嬉の一酒の民俗文化博物館にいます。
酒造りの話の続きです。酒米は、精米し、よく洗い、そして一般家庭と同じようにしばらく水に漬けられます(写真①)。 酒を仕込むのに欠かせないのが麹造りです。麹菌によって米のデンプンを糖分に変えるのです。山海名産図会の麹造りの絵とその解説です(写真②)。 この絵を見るとよく分かりますね。半地下になったかまどで火を焚き、こしきで蒸し上がった米を木のへらで蒸らし、桶ですくい取って別の桶でむしろに運んで冷やします。適当に冷えたところで右上の麹室の中にある麹盆に入れて寝かすのです(写真③)。 昔はこういう作業に桶を使ったのですが、現在はこういうものを使っているようです。この方が手間をかけずに衛生を保ちやすいのでしょう(写真④)。 次は「もと」作りです(写真⑤)。麹が作った糖分をアルコールに変えるため、酵母菌を入れます。 これが山海名産図会のもと作りの絵です。左側の階段を上ると仕込み桶が待っています(写真⑥)。 絵に出てくる取っ手の付いた桶です(写真⑦)。 仕込みの工程です(写真⑧)。この解説は難解で正確なイメージがわきません。 これは山海名産図会の仕込みの図です(写真⑨) 最後は発酵した醪を搾って酒を取り出します(写真⑩)。 これが山海名産図会の絞りの様子です。上の方にある大きな木箱が搾り器で、男達がたくさんの石をぶら下げてこの原理を使ってきつく搾ります(⑪)。この後はできた酒を過熱して殺菌し、貯蔵して熟成させるとできあがりです。 まあ、他にも展示張りますが、酒造りの工程や道具の話はこのくらいとします。 往時の造り酒屋の看板です(写真⑫⑬)。写真⑬は世嬉の一です。製造元は横屋酒造店となっていますが、現在の世嬉の一酒造株式会社の前身でしょうか。詳細は不明です。
こういうブリキ看板やホーロー看板が日本中にあふれたのは昭和30年頃からから40年代でしょうか。その後は他のメディアが発達したり、これを打ち付けるのに適当な木造家屋が減ったこと、新商品のサイクルが早くなってこの種の看板は時代遅れになったことが原因で廃れていきます。しかし、特にホーロー看板は堅牢で、これ自体は半永久的な寿命があり、今でもあちこちの古い家に打ち付けられたままになっているのをよく見かけます(写真⑭)。
日本ビールなんてご存じでしたか(写真⑮)。サッポロビールの商標です。星のマークがありますが、星ではなく、函館の五稜郭を意匠したものです。 こういうところにも酒造りの道具が並んでいます。荒櫂、くりあげなどというという名札がついていて、一種の攪拌用の道具でしょうか(写真⑯)。 酒を入れる甕です。土瓶のようですが、注ぎ口はなく、下に栓付きの穴があります(写真⑰)。 これも造り酒屋の看板です。銘柄は「秀峰」で、後方に富士山らしき山が描かれています(写真⑱)。
続く |
|
2011年5月5日(金)
今、岩手県一関市の世嬉の一酒造が運営する世嬉の一酒の民俗文化博物館にいます。
日本酒は米と水とよく言われます。米は遠くからでも持ってくることができますが、水はそうは行きません。良質の水源が近くにあること、それが酒造りの条件の一つですこれは水の解説です(写真①)。 これが昭和初期の水汲みの様子です(写真②)。井戸から巨大な跳ね釣瓶で水をくんでいます。 酒米の蒸かしの解説です(写真③)。 解説の通り、釜場の焚き口は床よりも1メートル以上低い所に耐火煉瓦を積んで作られています。理由は簡単、かまどの上に大釜とこしきが乗るから、かまどを低くしておいた方がこしきから蒸した米を取りやすいからです(写真④)。 これが酒米を蒸かしている様子です(写真⑤)。1500キロ(1万合)もの米を蒸すわけですからいい匂いがするでしょうね。 蒸した米は桶で運び、用途に応じて適切な温度までさまします(写真⑥)。 これがその様子です(写真⑦)。 南部杜氏の解説です(写真⑧)。近江商人が1678年に大坂の池田から杜氏を招いたのが最初でした。屋号は近江屋でした。ちなみに杜氏というのは日本酒を醸造する職人集団、チームの監督、責任者のことです。 近江屋の商売は大いに繁盛したのですが、自家製だけでは足りなくなり、近隣の農家に委託して不足分を作らせました。これにより、日本酒製造の技術が南部の農民に伝わり、雪に埋もれる冬の農閑期の副業として酒造りが定着したのです。 元々、良質の米の産地であり、水にも恵まれた土地柄で、また寒冷地と言うことで酒造りにも適合し、やがて、日本有数の酒造りの地となったのです。そうなると、日本人の職人気質が発揮されて酒造りの技は今で言うすご技として研ぎ澄まされ、これが有名になって全国で活躍することになったのです(写真⑨)。
南部杜氏は現在も活躍しています。ご存じでしたか(写真⑩⑪)。残念ながら我が和歌山県には来ていないようです。和歌山の日本酒もまずまずの味ですが、とびきりうまいというものでもありません。 これは山海名産図会という1799年に発行された本の「精米の図」を元にした絵です(写真⑫)。使っているのは「唐臼(からうす)」で玄米を精米しているところです。
解説がありました(写真⑬)。この作業はやがて水車を使ってやるようになります。 その水車の精米作業の様子です(写真⑭)。まあ、人が踏むかわりに水車の動力を利用していること以外は変わらない風景です。 別の解説です(写真⑮)。御承知のように酒米は普通の食べる米よりもたくさん表面を削ります。だから唐臼式は大変だったのです。解説から察すると、昭和に入ってからは水車ではなく発動機の動力に変わったのでしょう。洗米も、当時は桶に水と米を入れて足踏みして洗ったのですが、これまた大変な作業でした。 これは山海名産図会の「米洗いの図」ですが、現在の一般家庭と同じでどうも手で揉んでいるように見えます(写真⑯)。 米洗いの図の解説です(写真⑰)。米のとぎ水はいろいろな栄養を含んでいます。集めておいて花や木にまいてやりましょう。いい肥料になります。そのまま下水に流すと単なる水の汚染物となりますから。 続く |
|
2011年5月5日(金)
今、岩手県一関市の世嬉の一酒造が運営する世嬉の一酒の民俗文化博物館にいます。
中に入りました。 世嬉の一酒造の「世嬉の一」という銘柄の由来です(写真①)。閑院宮が命名したと言うことです。 これが閑院宮がこの会社を訪れたときの写真です(写真②)。この閑院宮は載仁親王でしょう。親王は伏見宮家の出身で、閑院宮家に入り、1912年陸軍大将、1919年には元帥の称号を受けています。敗戦直前の1945年5月に薨去(こうきょ)」しています。 閑院宮家は江戸時代の1710年に創設されています。閑院宮家が現在の皇室の直系の皇統だということをご存じですか。 実は、江戸時代になると皇族は皇位継承者をのぞいて出家するという慣習になっていました。1654年に後光明天皇が若くして崩御されると、天皇の近親者は出家した皇族男子ばかりになり、皇位継承問題が起こったのです。このときは何とかなったのですが、危機感を持ったのがあの新井白石です。
新井白石は歴史上有名な人物ですが、実体は今で言う専門バカ、凝り固まった石頭の朱子学者でした。現在では江戸時代で一番優秀な経済官僚と評価されている荻原重秀を失脚させたことでも知られています。その新井白石が唯一、慧眼を発揮したのがこの閑院宮家の創設でした。
御承知のように、実際にそれはすぐに威力を発揮します。1779年に後桃園天皇が崩御されると内親王がいるだけという事態になり、閑院宮家から師仁親王が皇位につき光格天皇となったのです。現在の皇室はこの光格天皇の直系です。
しかし、敗戦後の1947年に、GHQの命令によりそれまであった多くの宮家が廃止されました。閑院宮家も廃止されました。その結果、現在、江戸時代よりもはるかに深刻な皇位継承問題があります。せめて、伏見宮家と閑院宮家は残しておけばまだよかったのですが。 幸いにも秋篠宮家に悠仁親王が誕生されたので、万世一系の皇室の権威の失墜を企てる輩(やから)の野望は取り敢えず打ち砕かれたのですが、皇位継承問題としては残ったままです。
子ども神輿がありました(写真③)。どうも模型はなく本物のようです。現役なのか引退したものなのかそれも分かりません。 さて、ここのは「いちのせき文学の蔵」というものが併設されています。これがその解説です地図を見れば変わりますが、一関は平泉の南隣で文人墨客の訪れたところ、あの蘭学の大槻玄沢や、その孫で「言海」という日本初の国語辞典を編纂した大槻文彦などを輩出しています。そう言うこともあってこの文学の蔵があるようです(写真④)。 余り好みの人物ではありませんが、井上ひさしも一関に縁があります(写真⑤)。お母さんが土建業を営むという、当時としては相当な人だったようです。 魅力的な絵がありました。詩はあの島崎藤村が書いた傑作です。これを描いた嶋崎樹夫は島崎藤村の孫です(写真⑥)。 藤村も一関に来ています。藤村は1896年に仙台の東北学院(現;東北学院大学)の教師になる前に、一関に豪商の熊文の息子の家庭教師として来ていたようです(写真⑦⑧)。 加藤楸邨という著名な俳人も、父親の赴任に伴い、一関で旧制中学時代を2年間過ごしています(写真⑨)。
名前は有名でも加藤楸邨の顔を知らない人も多いでしょう。こんな顔をしていました(写真⑩)。 文学の蔵の紹介はこのくらいにしておきます。では酒の民俗文化博物館に入りましょう(写真⑪)。 餅花がありました(写真⑫)。餅花は一般的には小正月(旧暦1月15日、現在は新暦でやるところもあります)。の行事です。 解説がありました(写真⑬)。まゆ玉と言うそうで、養蚕の繭がたくさんできるように、秋には米が実りますようにと言う願いが込められています。 この土蔵は西洋の建築技術と日本の土蔵建築とが融合した建物です。群馬県富岡市にある製糸工場を見た人は分かるでしょうが、三角形を組み合わせたトラス構造が西洋式で、これを屋根の小屋組に取り入れたのです(写真⑭)。 この大きい桶は酒の仕込み桶です。中に入って大きさを体感できます。こういう体験ができるのはとても珍しいことです。まあ、棺桶と言う言葉もありますから余り入りたいとは思いませんが(写真⑮)。 さて、これは臼と杵ですが、酒蔵で餅つきをするわけではありません。解説では脱穀や粉つきに使われたとありますが、正確には脱皮、つまり千歯こきや脱穀機で取り出した籾殻の籾を落として玄米にする、いわゆる籾摺り用に使ったのではないかと思います(写真⑯)。 これは酒米を蒸すかまどと大鍋、その上に載せる甑(こしき、つまり蒸籠)です(写真⑰)。規模は大きいのですが、過程で使う蒸し器と原理は同じです。 これが大釜です(写真⑱)。かまどに載せて湯を沸かすもので、上に甑が乗ります。 解説がありました。ここで蒸し上げた米は麹用、もと用、醪用に分けられます(写真⑲)。簡単に言うと、醪は米のデンプン、それを糖分に変えるのが麹、さらに糖分をアルコールに変えるのが「もと、つまり酒酵母」ということです。 続く |





