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2011年5月5日(金)
今、奥州市の衣川区の増沢ダムにいます。昨日からここで野営でした。
0435時起床。かなり寒いです。車のフロントガラスは真っ白でした(写真①)。 まずは暖かいラーメンで朝食です(写真②)。 0450時出発、県道37号線を北に向かいます。北上市和賀町で国道107号線に合流、西進します。 0621時、岩手県西和賀町の道の駅錦秋湖着(写真③)。国道107号線は岩手県大船渡の国道45号線から分岐し、北上市で国道4号線と交差、秋田県横手市で国道13号線を横切って秋田県の由利本荘市で国道7号線に接続するという長大な東北横断道路です。一本の国道が、長駆、太平洋から日本海まで突き抜けるというのも珍しいことです。 ここは岩手県と秋田県の県境の山奥で、向こうの山はまだ雪を被っています(写真④)。 車が6〜7台止まっていますが、昨日からの車中泊とすぐに分かります。 洗面所で身支度をして少し休憩、しばらくして出発、少し行ったところで国道107号線から県道1号線に分岐して北上します。西和賀町役場の沢内庁舎の少し手前にある碧祥寺をめざします。 0815時着(写真⑤)。 こんな山の中ですが、ちゃんとドライブインまであります(写真⑥)。 これが見取り図です(写真⑦)。正直なところ、こんなに大規模なものとは夢にも思っていませんでした。 これは本堂です(写真⑧)。 資料館に入るとびっくりしました。県立博物館も足元に及ばないような膨大で美しい展示品ばかり、いやいや、収集品も多分野に及び、美術工芸品から日常生活用具、農具まで多種多様で、およそ世の中にありそうなものはすべて展示しているという感じです。 ホームページでもその片鱗を見ることができます。残念ながらここも撮影禁止なので展示品の紹介はできません。見るだけでも1時間近く掛かりました。
さて、0930時、ここを出発、県道1号線から国道107号線に出て東進、北上江釣子ICで東北道に乗り南下、一関ICで高速を降りて一関市の市街地に入りました。北上川の支流の磐井川の右岸、つまり東側の市立図書館の隣にある世嬉の一酒造にやってきました。
1047時着(写真⑨)。ここは世嬉の一酒造の酒蔵なのですが、酒の民俗文化博物館を併設しています。 これは見取り図です(写真⑩)。酒蔵の他、イベント蔵、レストラン、博物館があります。もちろん、現役の酒蔵です。 酒蔵と言うから日本風の木造の蔵と思ってきたら石造りの洋風でした(写真⑪⑫)。 こういう蔵もありました(写真⑬)。元は仕込み蔵で大正7年の竣工です。解説では日本古来の土蔵建築に西洋式の梁を取り入れたとあります。あとで注意してみましょう。
こういうものが外に展示されているというのも珍しいです。仕込み桶です(写真⑭)。 仕込み桶の解説です(写真⑮)。 この蔵が酒の民俗文化博物館になっています(写真⑯)。正面には杉玉と注連縄がありました。 杉玉は、「酒林」といいます。これがその解説です。造り酒屋の玄関には必ずこの酒林が吊ってあります(写真⑰)。米の発酵が終わり、醪(もろみ)を搾って新酒ができたときにお会い杉玉を吊します。杉玉が焦げ茶色になる頃にはこの新酒も熟成してまろやかでおいしい酒になっています。 では中を見学しましょう。 続く |
第17回大旅行(2011年4月)
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2011年5月4日(木)
今、奥州市前沢区の牛の博物館にいます。
さて、この先は牛にまつわる話を色々解説しています。 まずは岡山県吉永町(現備前市)の田倉牛神社の牛神様です(写真①)。 この神社には小さい焼き物の牛が積み上げられています。願い事が叶った奉納されてできた塚なのだそうです(写真②)。 木の実かと思ってよく見たら、確かに牛でした(写真③)。 日本初の肉食禁止令です(写真④)。牛、午、犬、猿、鶏を食べるなということです。仏教系の信仰によるものではなく、稲作を促進するためのものだったようで、禁止期間も4月から半年間だけだったようです。猪や鹿は入っていません。 豚が入っていないのはなぜでしょう。要するにイノシシを家畜化したものに過ぎず、農耕用としては何の役にも立たなかったからでしょう。では、猿は?、厩神だったからかもしれません。まあ、詳しいことは分かりません。
1671年の「ほう厨備用和名本草」です。牛肉、牛乳の効用か書かれ、江戸時代を通じて薬として食べられていたようです。犬も密かに食べられていましたが、悪名高い徳川綱吉の時代に出された「生類憐れみの令」の効果で、日本では犬を食べる習慣は完全に廃れました(写真⑤)。 解説です(写真⑥)。京都に初めて来た人は「湯豆腐」という看板を出す飲食店の多さにびっくりするでしょう。何で昼間から湯豆腐を食べるんだ!。実はここは寺が多かったために、寺の精進料理の一種である豆腐料理が民間にも広まったのです。 可愛い牛の人形です(写真⑦)。 高村光太郎の「牛」という詩の一部です(写真⑧)。 牛と馬、どちらか一頭選べと言われたときどうしますか。荷物を遠くまで運ぶことが多い場合は、当然のこのながら馬です。牛はこの詩のようにのろのろとしか動きません。 田畑を耕す能力に大きな差はありません。まあ、今の軽四と耕耘機を兼ねたようなものと言うことなら馬を選ぶでしょう。牛のいいところは食べたものを完全消化するので飼料のコスト面では馬はかないません。 逆に、馬の糞は未消化で微生物が一杯と言うことで作業中に糞をすれば濃厚な肥料をまいているのと同じ事になります。乳は牛の方がおいしいです。結論としてはその地域でどちらが多く飼われているかという事になります。
盛岡市にある千手院の「撫でベコ」の由来の話です(写真⑨)。 これがその模型です(写真⑩)。牛も生き物、思いやりがないといけません。 1860年に描かれた「異人屋敷料理の図」です(写真⑪⑫)。肉料理をしているところですが、一般庶民には奇異に映ったことでしょう。異人と言えば、今の感覚ではエイリアン、こいつら何を食っているんだと思ったかもしれません。 しかし、明治5年(1872年)の安愚楽鍋の様子です(写真⑬)。風俗も食事も劇的に変わっていく時代でした。
これは明治36年の食道楽です(写真⑭)。牛の部位の絵があり、部位別の利用法を紹介しています。まあ、こういう本の内容が都会だけでなく田舎にも浸透するのはかなり時間が掛かったでしょう。和服だってなかなか洋服には変わりませんでした。 さて、1538時になりました。これで牛の博物館の見学は終わりです。なかなか充実した所なので是非お立ち寄りください。 ここを出発、東北道平泉前沢ICの南200メートルほどの所にある奥州衣川歴史ふれあい館をめざします。 1601時着。これが奥州衣川歴史ふれあい館です(写真⑮)。有名な平泉の中尊寺の北、1.5キロほどの所にあります。 中は残念ながら撮影禁止だったようです。まあ、入り口から見えるところに、こういう展示があります(写真⑯)。
前九年の役(1051年〜1062年)の際の源義家(左)と安倍貞任(右)が戦闘中に遭遇し、和歌問答をしたという古今著問集の有名な場面です(写真⑰)。 ゆとりの教育時代、長く高校で日本史が必修科目からはずれたためか、前九年の役とか後三年の役といっても何のことか分からない人が増えましたね。まあ、牛の博物館からすぐ来られますから一度立ち寄って見るのも一興と思います。展示内容は紹介できませんが、それなりに興味深い話が続きます。
さて、1642時、ここを出発、県道37号線に出て10キロほど西進すると国見平温泉はごろもの湯があります。
1710時着。これが國見平温泉です(写真⑱)。 こういう看板が玄関に掛かっていました(写真⑲)。大和朝廷と8世紀に戦ったアテルイです。 さて、一風呂浴びて出発、更に県道37号線を西に行くと増沢ダムがあります。1741時着(写真⑳)。
いわゆるアースダムでした(写真21)。 ダムの解説です(写真22)。 さて、今日はここの駐車場で野営です。本日の夕食です(写真23)。ダム湖の駐車場は静かでいいのですが、一人きりの場合が多く、それなりの危険もあります。こんな熊でも出そうな所ですが、本当に怖いのは人に会うことです。用心が必要です。 明日は岩手県の最終日です。頑張りましょう。お休みなさい。 続く |
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2011年5月4日(木)
今、奥州市前沢区の牛の博物館にいます。
さて、戦後の話です。 アメリカから輸入された脱脂粉乳の缶です。1950年代に普通の牛乳に切り替わるまで学校給食で使われました。ご存じのようにこれ自体は栄養価が高いのですが、当時輸入されたものは廃棄用で家畜の飼料用だったものを送ってきたのです。 途中の扱い方も粗雑だったため、臭くまずかったと言うのがこれを飲んで成長した団塊の世代の人たちの感想です。田舎の農家の子は牛やヤギの濃厚な原乳を家で飲んでいましたからことのほかまずく感じたことでしょう(写真①)。
脱脂粉乳用やかんです。水で溶かしてわかしたのだと思います(写真②)。 昭和30年頃の学校給食です(写真③)。パンにカツというのも変な取り合わせですが、このパンはおいしかったです。パンはお金を出さないと食べられませんでしたから。 これは昭和22年の学校給食で、アメリカからの寄贈脱脂乳で学校給食が始まったころのものです。まあ、食べるものが本当になかった頃だから、給食は有り難かったでしょう。左は味噌汁のような気もしますが何でしょう(写真④)。 これは昭和36年に撮影された御当地、前沢小学校の給食です。コッペパン、脱脂粉乳、おかずという献立でした。アルミ製の食器が懐かしいです。しかし、前沢と言えば牧畜の盛んなところ、この頃なら本物の牛乳が出てきてもおかしくないと思うのですが。農家が多いから、野菜を持ち寄れば味噌汁だって簡単にできたと思うのですが(写真⑤)。 これを読むと当時の事情が分かります(写真⑥)。田畑が中心で、牛も農耕用、乳を飲む習慣自体がほとんど無かったようです。まあ、今でも、牛乳を飲むとお腹をこわす日本人はたくさんいますから、なるほどと納得します。 戦敗国として外国から温情でもらった質の悪い脱脂粉乳で始まった学校給食、昭和30年には国産の脱脂粉乳にかわり、さらに昭和39年には本物の牛乳に変わります。
これは前沢の昭和37年当時の牛乳を運ぶ農家の人の写真です(写真⑦)。この頃、前沢では乳牛を飼っている農家数は一番多かった時期なのですが、農家一戸当たりの飼育頭数はたったの1.7頭でした。 これは昭和35年から昭和40年にかけて御当地の前沢小学校で使われた給食の食器です。アルミ製で、軽い上に落としても割れないから安心でした。給食ですからもてないほど熱いものも出てきませんし、ちょうどよかったのです(写真⑧)。 昭和40年の給食です。右上の瓶入り牛乳が光っています。この頃に脱脂粉乳は廃止されたのです。ここまで来ると、「学校の牛乳」も何とか飲めるくらいのおいしさになったと思います(写真⑨)。 さて、話は変わって、牛も貨幣の模様に使われました。これは紀元前2世紀の古代ギリシャのドラクマ銀貨です(写真⑩)。 ドラクマというのは通貨の単位で、ギリシャではローマ時代になっても使われ、聖書にも登場するそうです。一端とぎれますが19世紀に復活しユーロに切り替わるまで使われた由緒ある通貨単位です。
他にもいろいろと牛が意匠された貨幣があります(写真⑪)。 さて、いささか不気味な話になりました、まずはこういう張り紙がありました(写真⑫)。厩猿(うまやさる)といい、かつて厩(馬屋)に祀られた猿の頭蓋骨や手を、当博物館が調査しているので、情報提供を呼びかけているのです。 実際の厩猿の写真です(写真⑬)。 御当地、奥州市の厩猿の分布図です(写真⑭)。 これを読むと、現在の東北地方ではごく限られた地域にしか猿はいません。そうなると、この骸骨として残っている猿は「一体どこの馬の骨か」ということで、遺伝子調査をしているようです(写真⑮)。 これは一覧表です(写真⑯)。厩猿でもDNAの型は3種類あるようです。大体は馬の守り神なのですが、さらに安産や豊作の神様にもなったようです。 これがその厩猿です(写真⑰⑱)。 さて、こういう信仰は一体何か、解説です(写真⑲)。
中国由来の五行説と十二支の組み合わせで馬の火を猿の水で制するというようなことです。
インド由来の信仰ですが、中国に入り、西遊記を読んだことがある人ならご存じでしょうが、孫悟空が天上で最初にもらった官職が弼馬温(馬屋番)だったというようなところに現れます。更に日本にも入り、こういうように猿の骸骨が守り神になったわけです。
日光東照宮の三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)も神厩舎に掘られた透かし彫りで、ここにも一種の厩猿の信仰が顔をのぞかせています(写真⑳)。
この話はこれで終わりです。次に行きましょう。
続く
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2011年5月4日(木)
今、奥州市前沢区の牛の博物館にいます。
牛の埴輪の話になりました。 まずは特徴の解説です(写真①)。 牛の埴輪の出土地の分布図です。かなり限られた地域でしか見つかっていないことが分かります(写真②)。 牛をモデルにした郷土玩具が各地に残っています。まずは解説です(写真③)。 出は各地の牛人形が展示されていますから詳しく紹介しましょう。まずは牛降り天神(奈良県桜井市)と牛鈴(佐賀県鹿島市)です(写真④)。 これは俵牛(京都・伏見人形)と寝牛(奈良・桜井市の出雲人形)です(写真⑤)。 これは牛乗り天神(福岡市・博多人形)、俵牛(倉敷市)、吉備牛(倉敷市)です(写真⑥)。 願掛け牛(長崎・平戸市)です(写真⑦)。 これは牛乗り天神(福島県・三春人形)、撫で牛(福島県・三春人形)です(写真⑧)。 赤ベコ(福島県合図若松市)です(写真⑨)。張り子です。 いずれも布引牛(長野市)です(写真⑩)。
すげ牛です(新潟県新井町)です(写真⑪)。菅(スゲ)で作った牛と言うことでしょう。 木牛(新潟県小千谷市)です(写真⑫)。木を削って作った牛です。 これも新潟県小千谷市の木牛だというのですが、さてどこをどう見たら牛なのでしょう(写真⑬)。 さて、岩手県岩泉市の郷土玩具のベゴ(牛のことです)の作り方が展示されていました。まずは、枝が出て牛の角に見えそうな赤松の木を切り出してきます。続いて木の皮を剥ぎ、余分な枝を落として形を整えます(写真⑭)。 この写真の下の方が完成品です。下になる部分を削って平らにします。顔に縄を付けて牛らしくします。この後、車輪を付けたり鼻緒を付けたりすることもあります。自然の木を活かした素朴な玩具です(写真⑮)。こういうものでも「見立て」で子供が満足した時代もあったのです。今の子供達、却って想像力が退化しているかもしれません。 金べこ(岩手県花巻市)、黄金牛(岩手県花巻市)、俵牛(岩手県陸前高田市)です。俵を背負った牛というのも結構ありますね(写真⑯)。 仙台張り子の俵牛です(写真⑰)。 これも仙台張り子の俵牛です(写真⑱)。 岩手県葛原町の素朴なベゴです(写真⑲)。 これは凝ったものです。秋田市の笛吹童子です(写真⑳)。 岩手県の花巻人形です(写真21)。いわゆる土人形で、牛が引く荷車に俵を乗せ、その上に大黒天がにこやかな顔で乗っています。 これも花巻人形です(写真22)。右端は牛乗り天神、他は牛乗り童子です。土人形です。高価な錦の布地をつかった人形を買えない人が多く、素焼きの泥人形に彩色した素朴で安価な土人形が人気を博しました。 起源は別で、京都・伏見稲荷の山の土を霊験あらたかなものとして持ち帰る風習が盛んになり、周辺の住民がその土を丸めて細工して売って人気を博したことから始まり、やがて、土鈴、牛馬の人形となり、子供用の土産の玩具として喜ばれたようです。これが各地の土人形の原型になったようです。
さて、人形の話はこれで終わりです。次に行きましょう 続く
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2011年5月4日(木)
今、奥州市前沢区の牛の博物館にいます。
さて、前回で全国の牛祭を紹介しましたが、御当地、前沢にも牛祭があります。まずは解説です。まあ、何とか前沢牛の名を高めようとして始めたもので、一種のイベントであって神社の神事ではありません。最初はただの焼肉大会でしたが、回を重ねるにつれて祭らしくなってきました(写真①②)。せっかくですから、地元の神社に頼んで神事として行えばもっとよかったかもしれませんが。 これは第10回(1995年頃)の祭のポスターです(写真③)。
ちなみにインターネットから引用した今年のポスターです(写真④)。記事を掲載した頃には終わっていると思いますが、来年もあるでしょうから是非行ってみてください。 これは祭の写真です(写真⑤)。 祭の様子を再現した展示です(写真⑥⑦⑧)。何かの缶を再利用した焜炉で網焼きにしています。いかにもおいしそうな焼き肉です。 南部の牛方の話になりました(写真⑨)。いやあ、内容は想像以上のものでした。南部牛の背中に鉄を乗せ、関東甲信越の鍛冶屋や鋳物師に売りに行きます。
一回の道中での牛は牛方1人で10頭くらい、夏を選んで道ばたの草を牛に食べさせながら1日40キロ移動し、20日で600キロ歩いたそうです。荷物の鉄を売った後は連れてきた牛も売り、手ぶらでいわてに帰ったそうです。
日本の「カウボーイ」は明治24年に東北本線が全線開通するまで行われました。もちろん、道中は野宿です。
これがその牛方の様子です(写真⑩)。このときに牛方が歌う歌が牛方節です。一番有名なのは南部牛追い歌ですね。三橋三智也などが歌って有名になったので聞けばすぐに分かるでしょう。哀調を帯びた気品の高い旋律で歌われます。歌うときは歌詞の間にサーハーエなどというかけ声が入ります。 田舎なれども 南部の国は 西も東も 金の山
ただし、この歌は岩手県内で物資の運搬をしたり、放牧で育てた牛を盛岡の競り場に移送するときに歌われたもので、関東に行くときに歌われたかどうかはわかりません。
さて、岩手県内で山間部と沿岸部を行き来する牛方もいました(写真⑪)。今で言う運送業です。 これは運送に使われた牛です(写真⑫⑬)。運送には馬の方が多く使われたと思っていたのですが、そうでもなかったようです。 牛が一度に運べる炭の量が解説されていました(写真⑭)。6俵、約90キロだったそうです。意外に軽かったと思います。人でも60キロくらいの荷物を背負って行き来した時代ですから。
牛の道の解説です(写真⑮)。山間部の道は険しく人力か牛馬しか運送手段はありませんでした。岩手県の場合、南北に北上川が流れていますが、北上川と東の太平洋との間に山地があり、東西に通じる川はなく水運はできなかったはずです。 これが南部領の牛の道です(写真⑯)。明治の終わり頃まで続いたでしょうか。次第に山間部に道路や鉄道も敷設されるようになると、牛による陸送は廃れていきました。 続く |





