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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
この博物館に付属する古民家の旧大竹家住宅にいます。 縄ない機がありました(写真①)。 台所です(写真②)。 水道が引かれていますが、往時は井戸水を汲んだか、谷川から掛樋で引いた掛け流しの水を使っていたでしょう。右の箱状の水屋は往時のものです。上に掛かっているタオルは明治20年頃に大阪の泉佐野市近辺で生産が始まったもので、それまでは今もある日本手拭いしかありませんでした(写真③)。 水屋です(写真④)。 奥の方を見たところです(写真⑤)。こういう焦茶色のような色のところはストロボが一番苦手とする場所です。どうしても暗く写ります。露出をオーバー気味に補正するといいかもしれません。 ここにある多くのものがは重要有形民俗文化財に指定されています(写真⑥)。 座敷から土間を見たところです(写真⑦)。最初は狭いと思ったのですが、結構広い土間です。 風呂です(写真⑧)。往時はここにはなかったと思いますがどうでしょう。 別の角度から見たところです(写真⑨)。 囲炉裏です(写真⑩)。標準的な自在鉤です。地域によっては上部に巨大な木製の鉤が付いていたり、自在鉤が豪勢な魚の彫り物になっていたりします。上にあるのは火格子です。ここにものを乗せて乾かしたり燻製を作ったりしました。 囲炉裏です。こういう太い木は長時間燃えるので重宝します。火の番をするのは大抵老人でした(写真⑪)。 美しい木目の戸です(写真⑫)。 囲炉裏の上部です(写真⑬)。太い梁が2本通っています。屋根の骨組みもよく分かります。 囲炉裏から見た土間です(写真⑭)。こういう土間があるといいですね。すこしゴミの出るような仕事もできるし、雨の日も作業できるし、客がくれば応接間にもなります。 神棚です(写真⑮)。 奥の方に行きましょう。2間とも畳敷きです。縁がありませんが、縁がないから格下の畳と言うことではありませんが、見ようによってはゴザと縁のある畳の中間くらいというようにも見えます(写真⑯)。 見事な造り付けの押入箪笥です(写真⑰)。こういうものは何と呼んだらいいのでしょう。横には機織り機があります。もしかしたら裂き織りかもしれません。 奥の部屋です(写真⑱)。機織り機が何台も並んでいます。 やはり裂織機だと思います。元々は繊維が貴重品だったころ、古くなった着物を裂いて長い紐にし、それを横糸にして織るものです。女性たちによって工夫されている内に独特の風合いを持つようになり、現在では工芸品として織られています(写真⑲)。 続く
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第19回大旅行(2012年4月)
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
この博物館に付属する古民家を見学するところです(写真①)。古民家は元からここにあったものではなく、移築したものです。 これは小規模な鹿威し(ししおどし)式の水車です(写真②③)。 先に解説を紹介しておきましょう(写真④)。同町内の今泉と言うところにあった馬宿、つまり、馬と一緒に泊まれた宿で、旧大竹家住宅です。
これは宿屋の雰囲気を出すための灯籠でしょう(写真⑤)。 これが旧大竹家住宅です(写真⑥)。いわゆる曲屋ではありません。 大竹家から向こうを見たところです(写真⑦)。のどかな春の粧いです。
では中に入りましょう(写真⑧)。
入り口のところに鎌が架かっていました(写真⑨)。その時々の農作業に合うものを持って出たと思いますが、今となってはいささか物騒です。 茅葺き屋根です(写真⑩)。カヤやワラなどが何層にも重なっているのが分かります。ここで毛細管現象が起こって水はカヤにそって横に流し出されます。 入ったところは土間で、横に馬屋があります(写真⑪)。 ちゃんと飼い葉桶も付いていることは珍しいです(写真⑫)。きちんと見せようとするこだわりを感じます。 土間はそう広くないという感じです。居間があり、管理人でしょうか、囲炉裏の火を焚いています(写真⑬)。よく乾いた木を使ってるようで、煙はそうありません。ちなみに赤い長靴があり、この人は女性だと分かります。 土間の上部です(写真⑭⑮)。非常にしっかりした骨組みです。 これは別の囲炉裏のある部屋です(写真⑯)。元が宿屋だったので各部屋に囲炉裏があり、。この周囲にゴザでも敷いて寝たのではないでしょうか。まあ、雨風をしのげ、クマやオオカミ、山賊、果ては妖怪変化から身を守ることができれば御の字、という事だったと思います。
これで味噌汁でも煮ていたかもしれません(写真⑰)。 続く |
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
歌舞伎衣装の続きです。 これは明治初期に作られたもので「茜竹色に雀文様着付け」です(写真①②③)。あかね色の地に竹が描かれ、意匠化された雀があしらわれています。竹と雀は家紋でもあります。舌切り雀もそうだと思っていたら、ただの藪で竹藪とは限らないようです。 こういう展示になりました(写真④)。
奥に見える衣装を紹介しておきましょう。明治初期に作られた「紫地鶉縮緬地松竹立田川糸目糊染付着付け」です(写真⑤⑥⑦)。 さて、竜田川は古来知られた紅葉の名所ですが、ここでは「立田川」となっています。描かれている鳥は一羽だけ、鶉(ウズラ)のようには見えません。まあ、大したことはないですか。
ちはやぶる 神世も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは 在原業平
歌舞伎衣装の調達法の解説です(写真⑧)。今で言う貸衣装だったそうです。大変高価な衣装ですから当然のことでしょう。ここに展示されているのはその貸衣装屋当館に寄贈されたものでした。極めて貴重な展示品です。
現在も奥会津で活動している歌舞伎一座の紹介です(写真⑨⑩⑪)。末永いご活躍をお祈りします。 さて、これで博物館の紹介は終わりです。展示品の多くが重要有形民俗文化財、素晴らしい内容でした。これは収蔵庫です。公開されていないものが収納されているものと思われます。中を見たかったですね(写真⑫)。
まあ、展示ではなく、収蔵庫ですから一見するとがらくたが棚一杯に並んでいるように見えると思いますが。もしかしたらこれは記憶違いで、内部でつながっていて見学したかもしれません。
普通の博物館だとこれで終わりなのですが、ここは屋外に古民家が4棟ほど立ち並んでいます。今、0950時です。すぐ隣にありますから見学に行きましょう。 途中には御当地出身の彫刻家である細井良雄の作品が展示されています(写真⑬⑭⑮)。 少し歩くと古民家が見えてきました(写真⑯)。いずれもここに移築されたものですが、こうやってみれば往時の雰囲気がよく伝わってきます。
では見学することにしましょう。 続く
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
歌舞伎は豪華な衣装を人が着て演じる派手な舞台です。衣装も大切に保存されています。 これは明治後期に作られた「藍鉄ビロード地菖蒲文様紋付き」です(写真①)。 これは江戸時代後期に作られた「納戸色縮緬地水に秋草文様紋付き繍着付け」です(写真②)。 これは江戸時代後期に作られた「白麻地菊藤花束に菊立湧菱万字文様繍振り袖」です(写真③④⑤)。どれも漢字を見るとどう読むのか分からないくらいですが、日本語なので順に漢字を拾って読めばいいのです。花火の名と同じです。とても美しいです。 これは江戸時代後期に作られた「紫縮緬地水辺飛燕松草花腰文様着付け」です(写真⑥⑦)。裾の方に美しい文様があります。
これは明治中期に作られた「黒ビロード地扇面宝づくし切り付け裲襠(うちかけ)」です(写真⑧⑨⑩)。ビロードは御承知のように表面に細かい毛があって、当たった光がその毛の中に落ち込むように吸収されるため、人の眼には真っ黒に見えます。
上段に松竹梅の扇、中段に鬼とおかめの面、その下にあしらわれているのはよく分かりませんが、打出の小槌でしょうか。
これもあでやかな衣装です。江戸時代後期に作られた「白麻地秋草茜繍文様着付け」です(写真⑪⑫⑬)。
これは明治初期に作られた「濃茶天鵞絨(ビロード)地牡丹紋切付裲襠」です(写真⑭)。濃茶というのは八墓村で出てきた奇妙なお婆さんの名で知りました。目をこらすとビロード独特の艶がありますが、微妙な茶色です。さて、牡丹の花に舞っているのは何という名の蝶でしょうか。
これは江戸時代後期に作られた「紅地花模様型染振袖」です。刺繍などはしていませんから見た目がややのっぺりした感じです(写真⑮⑯⑰)。 美しい衣装はまだあります。
続く |
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。 農具の続きです。腰籠です(写真①)。これを先祖とするものが今も素材や形を変えて健在です。 背負い籠です(写真②)。 往時の農家の女性の様子です(写真③)。 ショイバシゴ(背負い梯子)です(写真④⑤)。背負い板ともいいますが、造りを梯子に見立てたのでしょう。こういうもので重い荷物を持つと、鍛えていなければ5分もしない内に首が回らなくなるでしょう。 昔の女性は背負い板や背負い籠で体を鍛えていました。米は食べられないが野菜や山菜は食べられる、こういう世代では栄養補助食品や「トクホ」などというバカ高いものも必要としなかったでしょう。70代のオバサンが「私いくつに見える」などとたわけたことを言っている暇はそもそも無かったのです。
骨粗鬆症もトクホも文明病です。人が家畜になった証拠です。とは言え、今から昔の生活に帰ることもできませんが。
ソリです(写真⑥)。
これはソリで材木を運んでいる様子です(写真⑦)。 ソリといっても作りはいろいろでこれが一番簡単な造りでしょう(写真⑧)。 ジャリショイコバコ(砂利背負い箱)です(写真⑨)。今ならもっと楽に運べたのですが、昔は大変でした。 これは「タガラ」といいます(写真⑩⑪)。竹か縄で編んだ籠です。汎用性がありました。 さて、展示が変わりました。農村歌舞伎です。農村歌舞伎自体は全国各地で様々な努力により伝承され、その土地から都会に出た人が帰省したり、一般の観光客が来たりして結構にぎわっています(写真⑫)。そういうものか楽しみです。
まずはこういう解説がありました(写真⑬)。幕府が禁止令を出したのは歌舞音曲に凝っていないでしっかり米を作れと言うことでしょうか。幕府なんぞに言われなくても田んぼを作るのは当たり前という気がしますが、現代の価値判断で歴史を見るのは間違いの元です。 中に入りました。片田舎の素人芝居だろうなどと侮ってはいけません。これは半端なものではなさそうです(写真⑭)。 往時の公文書が展示されています。古文書は所詮読めないので、現代文だけ紹介しておきましょう。こういうものでした(写真⑮⑯⑰)。まあ、現代の感覚からすれば余計なお世話だという事だと感じる内容です。 と思ったら、現代は役所の名を語って振り込め詐欺の電話が来るとか、今の役所は江戸時代のこういう文書をだすほど「親切」ではありません。さすがに警察以外では「出頭しろ」等とは言わなくなりましたが。「自己責任で好きにしろ」が今の世の大原則です。
奥会津の歌舞伎でよく演じられた演目の台本です。一ノ谷というのは源平合戦の名場面、奥州安達ヶ原はあの鬼婆の話です(写真⑱)。 太閤記も人気だったようです(写真⑲)。 忠臣蔵は現在も人気があります(写真⑳)。歌舞伎の仮名手本忠臣蔵は赤穂浪士の討ち入りの後47年後に演じられたものですが、虚々実々の感動的な物語でした。講談と同じで、完全な作り話もあれば、史実の原型があってそれを感動的に膨らませたものもあります。まあ、歴史の教科書ではありませんからこれでいいのでしょう。 もっとも、悪意でウソの話を作り、我が国を貶めようとする国も隣にいるようです。忠臣蔵の例を念頭に、ウソはウソだと主張しないといけません。ムラヤマやコウノのような愚行を繰り返さないのが肝要です。
続く |





