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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
鉱山の話になりました。 解説を紹介しましょう(写真①)。鉱山は露頭を探すので大抵は山奥にあります。採掘が始まると山中に突如として鉱夫用の家、寺、商家、遊女屋が現れるのです。 大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)の解説です(写真②)。 この地図を見ると、八総鉱山は現在の国道121号線と国道352号線交差点から少し西にあったことが分かります(写真③)。この辺り、今でも山深いところです。 昭和25年当時の写真です(写真④)。 鉱山住宅の様子です(写真⑤)。小学校や診療所もありました。問題なのは鉱脈には寿命があるということです。掘るものがなくなる前に採算割れで閉山と言うこともありました。そう言うとき、こういう町も忽然として廃墟になるのです。 鉱山の中の様子です(写真⑥)。落盤を防ぐにはこうした作業が欠かせません。 これは採掘の様子です(写真⑦)。削岩機を使っています。ノミと槌なら何百年もかけて掘ったところを削岩機だとわずかな時間で掘り尽くしてしまうようになりました。 写真としては再掲になりますが、解説にあった大山祇神社です。扁額は本物と思われます(写真⑧)。 鉱山はこれで終わりです。鉱山の道具などは展示されていませんでした。 運搬具の話になりました。まずは解説です(写真⑨)。いつも不思議に思うのは、なぜ、馬の背か人の背しか方法がなかったのでしょう。輪はあったのだから2輪や4輪の馬車もありそうなものですが。 中東では古代ペルシャの時代から2輪の戦車があったのですから。日本という所は余程道が悪かったということでしょうか。この解説の中で一番効率がよかったのはソリでしょう。今でも普通に使われていますから。
簑です(写真⑩⑪)。温暖な地方でうは雨具ですが、雪の降る地域では雪除け、防寒具として使用されました。 これはイジコです(写真⑫⑬)。山仕事や山菜採りなどのときに弁当や小物を入れて背負う袋でした。
これもイジコです(写真⑭)。
これは「ミノ」という名が付いています。背負い板を背負うときのクッションです。ここでは雨や雪を防ぐためにも使われるとされています(写真⑮)。日本語で言えば緩衝器ということになるでしょうか。 これもミノですがおしゃれ心を感じ取れます(写真⑯⑰)。 続く。 |
第19回大旅行(2012年4月)
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
馬の道具の続きです。 左はウマのクツカゴ(口篭)、右は携帯用の行灯です。携帯用としては小田原提灯の方が有名です。口篭は、文字通り、馬が道草を食べないように馬の口に掛けたものです(写真①)。 これも行灯です(写真②)。元々、漢字の名前が行く灯ですから携帯用で当たり前と言えば当たり前です。 これも行灯と思われますが、名札は「チョウチン」となっています。まあ、提灯も「手に提げる」という意味ですからこれでいいのです。置くことを前提にした行灯は「取っ手」が上ではなく、下に付いています(写真③)。 馬のクツカゴを作るときの型です(写真④)。 松明台と燃料です(写真⑤)。燃料には松の木っ端が使われました。松は全体に樹脂を多く含み、燃えやすいのです。 こういう看板がありました(写真⑥)。往時は徒歩で旅行するのが当たり前でした。この宿屋は泊まるときに馬を預けることができる宿でした。馬を引いて泊まるのは専門の業者だったと思います。 こういう解説がありました(写真⑦)。街道を通しで運送できる免許を持った業者で、今で言うヤマト運輸とか佐川急便とかいう広域運送業者の前身でした。 荷鞍です(写真⑧)。 これも荷鞍です。右にあるのは繋ぎ石、これに馬をつなぐのです(写真⑨)。 荷鞍の解説です(写真⑩⑪)。以前、観光地で馬が重い馬車を引いているのを見た人が虐待だと言ったという話がありました。しかし、完全な勘違いでした。 馬も人も動ける内は働くのが一番いいのです。田んぼの仕事や軍馬としての必要が無くなると、馬は競馬用か、ごくわずかの篤農家による肥育以外に生き延びられなくなりました。牛や豚のように長くても数年で肉になる運命の「家畜」もたくさんいるのですから。 これはいつ頃の写真でしょうか。もしかしたら再現写真かもしれませんが往時の馬子の様子は分かります(写真⑫⑬)。
馬頭観音を奉じる奉納品がありました(写真⑭⑮)。馬頭観音は普通の人身で頭に馬の頭の格好をした冠をかぶっているものとばかり思っていたのですが、人身で頭そのものが馬である観音様もいるようです。馬の無病息災の守り神として大いに信仰されたのです。
馬は貴重な財産でした。神社に奉納されることも多かったのですが、神社の方も生きた馬をもらっても困ります。そこで、代わりに誕生したのが絵馬です。
最初は馬の絵だったのですが、やがて神様、歴史上の英雄豪傑、風景画などとなり、昔の神社はさながら美術館だったのです。これがその絵馬です(写真⑯〜⑲)。
大山祇神社の祠がありました(写真⑳)。大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)は愛媛県の大三島に鎮座します。今では海の神様のように思われがちですが、元々は名前の通り山の神でした。全国に勧進され信仰されてきました。なぜここにあるか、次回で分かります。
これで馬具の展示は終わりです。次は鉱山の話になります。 続く
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
左はケバキ、つまり刷毛、中央の四角いのは「ケバケ」という名札が付いていますが用途は不明です。馬用の道具と言うことなので、馬の毛をすいたものかもしれません。右上は焼きごて、下の竹筒は薬入れです(写真①)。 焼きごては焼き印を付けるものです。昔、「O嬢の物語」という映画でO嬢に焼き印を付ける場面がありましたが、あれは犯罪です。
馬にもこの焼き印が使われましたが、一種の虐待だとして、現在は凍結烙印というやり方をしています。
焼き印は烙印とも言われ、「烙印を押される」という慣用句が今に残っています。
ドジャガマです(写真②③)。
江戸時代に描かれた浮世絵にも馬の草履を替える場面が出てきます。中山道六十九次・板橋宿の右下の部分です(写真④)。
馬の鈴です(写真⑤)。元は魔除けだったそうですが、後に装飾、通報、クマ除けの役目を果たしたそうです。通報というのは音を出してそこにいることを知らせるという事でしょう。 プリウスのような自動車に乗っている人に低速時に何か音の出るものを装着することをお勧めします。住宅地の中で徐行するのはいいのですが、エンジン音がしないため人の方が気付かないのです。その点、ディーゼルエンジンを積んだハイエースは最高です。やかましくて遠くからでもそこにいると分かります。
ニグラボネキガタ(荷鞍骨木型)です(写真⑥)。 大量生産するときの標準型です(写真⑥の2)。 出来上がった荷鞍です(写真⑥の3)。 エサガマスです(写真⑦⑧⑨)。携帯用の飼い葉入れで明治末期のものだそうです。鉄道や道路が整備されつつある時代でしたが、まだ峻険な山道があり、馬方ももうしばらく仕事がありました。 カマスは「叺」と書き、普通のムシロを半分に折って2方を縄でとじ合わせた袋です。現在の米30キロを入れるような袋の前身です。
水入れです(写真⑩⑪)。桶と違い上下にたたむことができました、今でも色々なところで普通に使われています。
押し切りの一種で「ワラコギリ」という名が付いています。馬の餌を作るときに使いました(写真⑫⑬⑭)。少量でいいときは写真⑬の下にあるように普通の押し切りのような格好をしたものを使ったのです。
ちなみに米に大根などを入れて食べるときに大根などを切る道具は「カテキリ(糧切)」と呼ばれました。混ぜご飯は貧乏の象徴のような存在でしたが、これを食べた人は決して脚気にはならないという皮肉な結果になりました。
豊かな時代の現在、麦や稗が珍重されるというのも歴史を視野に入れれば不思議な現象です。白ご飯はとてもおいしいのですが。
センダンギリ(千段切り)です(写真⑮⑯⑰)。
続く |
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
「バッタリ」が登場しました。いわゆる「シシオドシ(鹿威し)」式の杵と臼です(写真①②)。水車に比べると非常にできあがりが遅いのですが、装置全体が小さくて済むという利点があります。先端の重りで重心を調整すればわずかな水で動きます。 こういう展示がありました。腹一杯米を食べたい・・・、その通りです。麦や大根の入ったご飯に比べれば米だけのご飯がどんなにおいしいか、往時はみんなそう思いました。
江戸の風土病と言われた「脚気」もここから来ています。田舎の藩から江戸に来た武士達が腹一杯米を食べていると、足がしびれたりむくんだりしたのです。田舎に帰って麦や野菜を食べると不思議なことに治ったので、風土病と言うことになったのです。
原因は今ではよく知られているビタミンB1欠乏症でした。明治期の旧陸軍でも脚気が起こったのが知られています。陸軍兵士が貧乏な田舎の出身者ばかりだったので、軍隊にいるときぐらいとばかり米を食べさせたのです。森鴎外もこの頃は陸軍軍医でしたが原因を知りませんでした(写真③④)。皇女和宮の死因も脚気です。
絵もありますから紹介しておきましょう。先ほど紹介した農具も登場します。これは 畦塗りと代掻きです(写真⑤)。
田植えです(写真⑥)。スジヒキと呼ばれる農具を使って田に線を引いています。これに沿って苗を植えます。同じような農具で転がして使う田定規というものもあります。長い紐を使うこともありました。 ハデカケ(稲架け)で刈り取った稲を天日干しをしています(写真⑦)。「ハザ」ともいい、家の庭に常設して色々な野菜を干すのにも使われました。もちろん、子供のジャングルジムにもなりました。かなり危ない遊びで今なら親が止めるかもしれません。 脱穀です(写真⑧⑨)。足踏み式脱穀機、千歯こき、フルイ、箕、唐箕が並んでいます。左では棒で叩いて脱穀していますが、先に紹介したクルリボウではなく、普通の棒のようです。 さて、展示が変わりました(写真⑩)。中央に曲屋の模型があります。
地元田島にあった旧大竹市住宅の模型で専門学校の学生達が作ったそうです(写真⑪⑫)。茅葺きの家は屋根を葺いてから10年もすると段々と朽ちてくるので、見ようによってはボロ家に見えるのですが、中は太い梁と柱が使われ、広い土間と板敷の間、奥の間と、現在まで残っているものは豪勢な造りのものが多いです。 消防ポンプ車が登場しました。まだ手押し式で人が引いたものと思われます(写真⑬⑭)。太いホースは連結式で延長できました。しかし、手押しでは水圧は低く大きな家が火事になるとなすすべもなかったでしょう。
桶ですが、手前は突起物があってそこに穴が開いています。これで水を運んだか、ツルして水を入れたかどうかは分かりません(写真⑮)。
上半分は馬の轡(くつわ)、下は「シリガイ」といい、丸い穴で馬の尻尾に通し、鞍が前後にずれないようにしました(写真⑯)。 この黒い物体はクイズになりそうです。形を見ると何に見えますか・・・、そう、馬の顔に見えます。実はこれは馬の耳袋です(写真⑰)。 上は馬のかんじき、下は馬の沓(くつ)です(写真⑱)。日本で蹄鉄が使われるようになったのは明治になってからです。 続く |
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
農具の展示が続きます。これは田下駄、鋸鎌です(写真①)。今は排水が行き届いて乾田が当たり前ですが、昔は湿田が多く、作業中に足が沈まないように田下駄を履いたのです。 鎌は鋸のように歯が付いていて稲を刈り取るのに使いました。稲の茎は固く、うっかりすると滑って指を切ることがあります。
ガンノツメという名が付いています。水田の除草に使いました。今でも似たようなものがあり、庭の雑草を取るのに便利です(写真②)。しかし、しゃがむか腰を折るかしないと使用できないという難点があります。 除草機です(写真③)。苗を植えるときに一列に植えておけば、立った状態で使用でき、除草作業は大変楽になりました。 よく見掛ける馬鍬です(写真④)。市電を耕した後で、田に水を入れて土をならす道具です。 これも田下駄です(写真⑤)。忍者の使う水蜘蛛を連想しますが、これは沼地を歩くときに使うものです。忍者の水蜘蛛も、この周囲に大きな浮き輪を付けないと水には浮かばず、歩くことはできなかったようです。 巨大な「トンボ」のような格好をしていますが、「スジヒキ」といいます。長い柄の先に格子状の枠が付いていて、これで田んぼに苗を植える筋をつけました。直線に整然と植えないと後の手入れができないからです(写真⑥)。 左二本は三本鍬、右二本は「クログワ」と言い、田んぼの畦が水漏れしないように畦を田んぼの泥で塗るときに使いました(写真⑦)。三本鍬は今でも一番普及している農具です。 「バコウ(馬耕)」といい、牛馬に引かせる巨大な鋤です(写真⑧)。 天秤状の農具で「ビク」といい、馬の背中に左右に振り分け、中に堆肥を入れて運びました(写真⑨)。 「タガラ」といい、堆肥を入れて人が担いで運びました(写真⑩)。 こういう展示になりました。堆肥に関するものです(写真⑪)。詳しく紹介しましょう。 一番上は「カキダシカギ」といい、天然の枝を使ったもので、畜舎に敷いていたワラを掻き出すときに使いました。上から2本目も用途は同じですが、先端には金属の刃が付いています(写真⑫)。 いわゆる肥桶とそれを担ぐ天秤棒です。肥柄杓もあります(写真⑬)。化学肥料が普及する昭和30年代まで人の糞尿は長く使われました。もちろん、肥桶も使われました。糞尿は汚物ではなく豊穣をもたらす重要な存在でした。 どこにでもありそうな押し切りです。色々な用途に使われましたが、ここにあるのはワラを切って堆肥にするときに使われました(写真⑭)。 堆肥を作る様子です(写真⑮⑯)。 堆肥の話はこれで終わりです。今でも堆肥は有力な肥料、それも有機質肥料としてです。有機質肥料で育てた農産物が人気ですが、秋田県で偽装事件が発生しています。くい打ち偽装と言い、肥料偽装といい、とても隣の国を笑えたものではありません。情けない話ではあります。
秋田県、そうでなくても人口が減り続けているのに、こんな琴では本当に未来がないですよ。
続く
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