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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
こういう人形がありました(写真①)。往時の山仕事の装備品です。刺し子の野良着、帽子、簑、手袋、雪下ろしヘラ、かんじき、藁ぐつを身に付けたり携行しています。 左は草鞋や草履、右は一般に「ワラつと」と呼ばれるものです(写真②)。雪道用のものは「ゲンベイ」と呼ばれました。 これがゲンベイとそれを作るときの型です(写真③)。 ソリです(写真④)。 往時のそりを引く写真です(写真⑤)。 会津茅手の話になりました(写真⑥)。雪深い当地では冬は戸外での仕事が無くなるため、男達はいわゆる出稼ぎに出るのですが、そのうち屋根の茅葺きを行う集団がのが会津茅手です。 会津茅手はこういう屋根を葺きます(写真⑦)。茅葺きの屋根の寿命は20年余、昭和30年代までどこにでも茅葺きの家があった頃は冬だけの土建屋さんという間隔だったかもしれません。現代の瓦も瓦自体は永久的なのですが瓦を固定している針金や漆喰に寿命があります。PM2.5に襲われて酸性の雨が降るともっと短くなるようです。隣に環境超後進国がありますから。 左の白い小さいのは鋏を研ぐ砥石、中央はマダケで作った油入れ、右は屋根葺き鋏です(写真⑧)。油は鋏の滑りをよくするのに使われました。屋根鋏は見た感じでは普通の園芸用と大差ありません。 これは何でしょう。屋根葺きに関係するものと思われますが、見たことがありません(写真⑨)。 これも屋根葺き鋏です。やや刃が長く上を向いているという感じです(写真⑩)。 現場の写真です(写真⑪)。高いところだし足場が悪くて危険な作業です。 何かの首の長い妖怪のようにも見えますが、「ガギ棒」と言います(写真⑫⑬)。 これは道祖神・矢羽根です(写真⑭⑮⑯)。矢羽根(やばね)というのは家紋や着物の紋様として有名です。
矢羽根がことのほか有名だったのはこの歌でした。1964年(昭和39年)に梶光夫が歌った「青春の城下町」の歌詞の2番です。
白壁坂道 武家屋敷
はじめてふれた ほそい指 ひとつちがいの 君だけど 矢羽根の袂が 可愛いくて (以下省略) 矢羽根の模様の着物は明治から大正にかけて女学生の制服でした。今でも女子大生が卒業式の日だけ着ることがあるので個存知かもしれません。一般的には大正ロマンの色合いが濃いだけにこの歌詞をみるとこの時代にどういう想定だったのか不思議な気分になります。大正も戦前の昭和も記憶の彼方に遠くなりつつあります。
行李と風呂敷です(写真⑰⑱)。出稼ぎの荷物はこれだけだったのでしょうか。
屋根葺きの話はこれで終わりです
続く
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第19回大旅行(2012年4月)
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
木地師の話は前回で終わりです。山仕事の道具が展示されていました。まずはハシナタ(嘴鉈)です。山でこの種の鉈を振り回すと先端部が石などに当たって刃こぼれを起こします。それを防ぐために刃の先端に突起を作っているのが分かります(写真①)。 これはよく見掛ける腰鉈です(写真②)。小さめの樹木を切ったり枝打ちするのに使われる必需品でした。西部劇のカウボーイの拳銃のように腰に必ずぶら下げていました。 ヨキです(写真③)。大きな斧と言ったらいいでしょうか。石器時代に登場した由緒正しい道具です。武器としても使われましたが、伐採用の道具として長く使われました。今も現役です。 これはカナヤ(金矢)、クチヤ(口矢)と呼ばれるもので、伐採の時に使われました。鋸で直立している木を切っていくと段々と鋸が木の重みで動かなくなります。そこでこれを打ち込み、鋸が動きやすくしたのです(写真④)。 雪の生活という解説です(写真⑤)。明治になって太陰暦から太陽暦に変わったため、現在の俳句や年中行事などで季節感に大きなずれがあり、文化的にも混乱を来しています。大雑把に言って旧暦は現行暦に対して4週間から7週間の間で常に遅れがあります。それは二至二分(春分、夏至、秋分、冬至)の日が入る月を旧暦の2月、5月、8月、11月と定めて旧暦と季節との差を調整したからです。江戸時代までの話を聞くときはこれを念頭にしておきましょう。 これは俵を編んでいるところです(写真⑥)。 ムシロを編んでいます(写真⑦)。 さて、これは何を作っているのでしょう(写真⑧)。何か筒状のものと思われますが。後で分かったことですが、これは踏み俵です。 往時のスキーです(写真⑨)。 箱ソリです。子供が遊んだり、荷物を運ぶのに使いました(写真⑩)。 これは「キンペイ」と呼ばれたようで、下駄に竹を取り付け滑りやすくして雪道で遊んだようです(写真⑪)。下駄スキーと呼んだらいいでしょうか。こういうのは初めて見ました。 これは有名な下駄スケートです(写真⑫)。1906年に日本で発明され、瞬く間に日本中に普及し、スケートの振興に大いに貢献した道具です。鍛冶屋はいくらでもいるし、もちろん下駄職人もいます。全国で簡単に安価で作る事ができたからです。 これは現代のスケートに近い形状のスケートです(写真⑬)。下駄スケートと違い、最初は立つだけでも大変だったでしょう。 これは「ゲンベイ」という名が付いています。爪先とかかとに覆いがついています。ぐゆのはきもの(写真⑭)。冬の履き物です。 この木製の道具は雪国の必需品、雪掃きです(写真⑮)。 さて、先ほど出てきた踏み俵です(写真⑯⑰)、雪を掃ききれないときはこうやって踏み固めたのです。 かんじきです(写真⑱)。雪の中を歩くときの必需品です。
しかし、これを付けて歩くのは骨が折れたことでしょう(写真⑲)。 東京などで急に雪が降った日に続出するのは滑って怪我をする人です。うっかりすると頭を打って致命傷になることもあります。雪の上を歩くものとしては革靴は最低の履き物なのですが、途中で履き替えるわけにも行きませんから、やや膝を曲げ気味にし、両手を出し、重心を爪先に掛け、一歩一歩踏みしめるように歩き、いつ滑ってもいいように身構えて歩きましょう。
この長い柄の道具は雪下ろしヘラです。今も現役です(写真⑳)。 続く |
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
木地師の話の続きでしょうか、大きな太鼓がありました(写真①)太鼓は和楽器の内でもよく目立つ存在です。 太鼓の解説です(写真②)。御承知のように太鼓は原木をくり抜いて作るものが一般的でしたが、現在はこれに耐える原木が少なくなり、桶のように作ったものも普及しています。皮の留め方も、鋲で留めるものと紐で留めるものがあります。当たり前のことですが桶式の方が軽くて大きなものを作れます。音は、どちらがいいか、やはりくりぬき式でしょうか。 太鼓の作り方です。大木の幹を輪切りにし、表面は曲面になった筒状にし、中はくり抜きます(写真③)。 これはどうも太鼓の表面を加工する道具のようです(写真④)。解説が「彫る」という言葉を使っているので、外側を加工するのか中をくり抜くのか正確には分かりません。 原木の内側を臼のようにチョウナやノミで削ると思っていたらそうではなく、この写真を見ると鋸で切って切り抜くようです(写真⑤)。と言っても、この種の鋸がなかった頃はやはりノミなどで削っていたと思われます。 まずはこのキリで穴を開け、鋸が入るようにします(写真⑥)。 次に登場するのがこのクリヌキノコです(写真⑦)。普通の幅の鋸では曲面に切るのは難しいですが、こういう糸鋸に近いような形状ならできたでしょう。 これが鋸で切ったあと、芯を抜いている様子です(写真⑧)。この芯から小さい太鼓や臼もできそうです。 最後はこういうチョウナを使って中を仕上げます(写真⑨)。 こうやってできた太鼓胴です(写真⑩⑪)。こうやってみていると、大きな木さえ見つかればくり抜き式の方が楽かもしれません。桶は一般に表面を丸くする必要はありませんが、桶式の太鼓を作るとなると仕込み桶のようにずん胴というわけにはいかないでしょう。どうやって表面の丸みを出したのでしょう。 解説がありました(写真⑫)。やはり皮を張った完成品を出荷した方がいいでしょう。
祠が2棟ありました(写真⑬)。中に祀られているのは山神様です。祠自体は新しいようですが、中の御神像は本物のようです。 解説がありました。なぜ、山神さまが登場したのか、それは木地師達がこの神様を祀ったからです(写真⑭)。 山上様は夫婦として祀られたようです(写真⑮⑯)。 この後、織田信長や豊臣秀吉などの名で発行された木地師に関する文書が展示されていますが、詳しいことは省略します。
続く
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
木地師の話の続きです 往時の写真が展示されていました。紹介しましょう。 これはカンナ棒を作っているところです。ろくろで回っている木地を削って整形する肝心要の道具です(写真①②)。 これはろくろで木地椀を挽いている作業です(写真③)。
これは出荷の様子です(写真④)。 山中の作業小屋から馬の背中に載せて村まで運びます。まあ、くり抜いた木の椀ですからそれほど重いものではありません(写真⑤⑥)。 往時、こういう山中でこういう生業があるというのはいいことでした。山村を疲弊させたのは、初めは明治大正の頃の交通網の整備の時期、次は昭和の高度成長時代でした。構造的なものが原因ですから、地方再生は口で言うほど簡単ではありません。
さて、我が国には発明家というか改良家と称賛される人があらゆる分野に数多くいます。この木地師の世界にもいました。明治20年代に画期的なろくろを発明した鈴木治三郎です(写真⑦)。
要するに現在の旋盤と同様にアラガタを回すのですが、削る方に大変な仕掛けがありました。型紙ならぬ「すり型」を取り付け、刃物をこの型に沿って動かすことで同じ規格のものを一人で大量に作れるというものでした。動力は最初は水車、後に電力になりました。 これが設計図です(写真⑧)。 これが実物です(写真⑨⑩⑪⑫)。すり型の位置の解説がなかったのですが、まあ、普通に考えるとこれだろうと思います。外側を削るものと内側を削るものとがあります。 これがすり型です(写真⑬⑭)。でも、喜んでばかりはいられません。先日、ロボットなどの普及で20年後には49%の仕事は人がしなくてもよくなるというニュースが流れていました。
では、そのとき、人はどこで働けばいいのでしょうかという問題が起きます。過去にもそう言う話がいっぱいあります。江戸時代の浮世絵に描かれている働く人たちの様子を見て現在と比較するとよく分かります。まあ、何とかなってきたから現在の日本があるのですが。
このろくろも大発明なのですが、工場で一人で大量に作れると言うことは、今まで従事していた木地師のうち少なくとも何分の一くらいは失業したのではないかと思われます。
木地師の話はこれで終わりです。
続く
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2012年5月3日(木)
今、福島県南会津町の奥会津博物館にいます。
木地師の話の続きです 椀などを作る原木を伐採しているところです。鋸よりも斧を使う方が早かったし、倒れる方向を制御できるから安全だったのでしょう(写真①)。もちろん、どこの木でも自由に切っていいというわけではありません。ちゃんと山林の持ち主と契約して切っています。これは炭焼きも同じです。江戸時代は藩内の木はどこでも切ってよろしいという許可証があったのですが、多くは偽物だったようです。 これは、恐らく、切り倒す方向にあらかじめ切り口を入れておく作業と思われます。今でも受け口、追い口という作業をしています(写真②)。 これは切った後で山の神にお礼をしているところです。このくらい株を残しておくとまた横から芽が出て木は再生します(写真③)。これをしないと罰が当たりますなどと言っても現在の人には通用しないかもしれません。 さて、次の工程は「カタブチ」です。木地椀の外側を椀らしく整形する工程です。これはその様子です(写真④、④の2)。 これはカタブチ用の道具です。一種の「チョウナ(手斧)」です(写真⑤)。
これはチョウナでアラガタを整形するときに使う台、「アテンボウグイ」です(写真⑥)。 この写真で、右はナカギリダイ、つまり椀にするために中をくり抜く作業をする台です。左の台は仕上げ用の台でしょうか。よく分かりません(写真⑦)。 これはナカギリの作業の様子です(写真⑧)。 これはナカギリに使うチョウナです(写真⑨)。 さて、こうやってできた荒削りのお椀はこう言うようにして乾燥させるようです。煤だらけになりますが、まあ、次はろくろで磨き上げるので構わないのでしょう(写真⑩)。 次はろくろで仕上げます。この写真で下がアラガタ、上がろくろを掛けた椀です(写真⑪)。 江戸時代、焼き物でも足蹴り式のろくろが使われていましたが、木地師はこういうろくろを使いました。臼を回すのと同じで、同方向に回転するのではなく右回転になったり左回転になったりします(写真⑫)。一方、木地に当てているのは「カンナ棒」です。削り方はこの間NHKのすご技でみた「へら絞り」に似たところがあります。 これがろくろです(写真⑬)。 こちらはカンナ棒です(写真⑭)。 さて、写真⑫に描かれたろくろは先端を木地に刺しているように見えます。この写真の右側の棒は「ジタネンボウ」と呼ばれ、アラガタを左側のろくろの先負にある爪に固定するときに使用するそうです。恐らく固定すればそれでお役ご免で、実際にカンナ棒で削るときはこのジタネンボウは外したのでしょう(写真⑮⑯)。 これは改良型で、一人で動かせる足踏み式ろくろです。右側に座り、下にある棒を足で踏んで回転させるのでしょう(写真⑰)。明治20年頃から使われたそうです。
これは嘉永4年(1851年)ころの木地小屋の様子です(写真⑱)。ろくろを回しています。右手の人が木地の表面を削っていると思われます。 これは続きです。中央の人物は足で固定しながら内部をくり抜いているような感じです(写真⑲)。 奥には囲炉裏やかまどもあります(写真⑳)。こう言うところで寝泊まりしながら完成品を作りそれを出荷したと言うことなのでしょう。そうそう、まだ塗りの工程がありますが、それは木地師の仕事ではありません。本物の漆器を作るには木地師と漆の塗り師が必要なのです。木地師がいなくなると合成樹脂製の木地を使うようなことになり、もう本物の漆器からは外れていきます。 続く
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