|
2012年5月2日(水)
今、福島県南会津町前沢にいます。ここは重要伝統的建造物群保存地区に選定された集落があります。
集落の入り口付近にあるのが前沢曲屋資料館を見学中です。 居間の奥は畳敷きの座敷でした。寒い地方なのでここにも囲炉裏があります。畳にはへりがありません(写真①)。 こういう造りになっています(写真②)。一枚板の板戸、上部は真壁造りで今どきのクロス張りの家と違い堂々たる造りです。まあ、こうでないと囲炉裏は使えませんが。茅葺きの家を「ぼろっちい」などと思うのは大間違いと言うことがよく分かります。 同じ部屋の土間から見て左側です(写真③)。板戸が閉められているためかなり暗いです。板戸のこの色、実はストロボを使うときにカメラが測光するのがとても苦手なのです。この写真も板戸は真っ暗になりました。
同じ部屋の土間から見て右側です(写真④)。これはきれいに写りました。畳の色が効いたのでしょう。正面上部に大きな神棚があります。 この部屋を「うわえん」ということが分かりました(写真⑤)。中央奥に階段らしき構造物がのぞいています。 とはいえ、うわえんの間にも天井はありません。2階がある場合、昔の多くの家では、二階の床の下が見えていました。現在は一階にも天井を張るためこういう事はまずありません。しかし、梁の太さには圧倒されます(写真⑥)。 自在鉤です(写真⑦)。一番簡素な部類の造りです。蛍光灯も何かしら時代がかってて調和しています。 賞状がありました(写真⑧)。集落の景観形成を顕彰しています。 よく似た賞状です。日付も写真⑧と同じ日でした(写真⑨。)建造物群が優秀だという趣旨です。御承知のように福島県には重要伝統的建造物群保存地区ばもう一箇所あります。 それは大内宿です。こちらの方は全国区で、ツアーバスも来るようなところです。ただ、いささか観光地化しすぎたかもしれません。
反面、過疎化や高齢化が進む中でこういう山の中の静かなところで集落を守るのは大変なのです。まあ、前沢集落ではなかなか大内宿のようなわけにはいかないでしょう。
掛け時計です(写真⑩)。ねじ穴が2箇所あって、2日に一度くらいは手で巻かないといけませんでした。1時間ごとに時刻の数だけボ〜ンとなり、時刻と時刻の間の30分にも一回鳴りました。静かな夜だと家中に響いたような気がします。 これは奥の部屋です。座敷と呼んでいます(写真⑪)。置かれている木札には「儀式、寄り合いに使われた」とあります。 座敷の上座です(写真⑫)。床と造り付けの押入状の造作があります。仏壇ではなかったでしょう。 座敷と呼ばれる部屋だけ天井がありました(写真⑬)。 座敷側から見たうわえんの部屋です(写真⑭)。土間に面した障子付きの板戸がやや格式が低いのが分かります。恐らく、明かり取りの必要があったのでしょう。 裏手の部屋に回りました(写真⑮⑯)。ここは「ちゅうもん」と呼ばれる部屋ですが、納戸として使われていました。 ちゅうもんの部屋の上部です(写真⑰)。屋根が急角度で曲がっています。
こういう部屋もありました(写真⑱)。夫婦の部屋です。炬燵が置かれています。まあ、新婚でこういう家に親と同居するのが昔は当たり前だったのですが、今どきの人ではとても耐えられないでしょう。 夫婦の部屋にあった炬燵です(写真⑲)。 夫婦の部屋には色々と展示されていました。次回で紹介します。 続く |
第19回大旅行(2012年4月)
[ リスト | 詳細 ]
|
2012年5月2日(水)
今、福島県南会津町前沢にいます。ここは重要伝統的建造物群保存地区に選定された集落があります。
集落の入り口付近にあるのが前沢曲屋資料館を見学中です。 こういう張り紙がありました(写真①)。明治40年の大火の後、現在の集落が作られ、住民の努力もあって保存地区に選定されたのです。 さて、馬屋を過ぎると土間に接して往時の座敷が残されていました(写真②)。 こういう入り組んだ造りの土間も珍しいです(写真③)。 鈍い色の壁に簑が掛かっていました(写真④)。まだ新しいものです。今でも作れるんですね。まあ、青いちり取りは余計ですが。 2011年10月に開かれたイベントのポスターです(写真⑤)。あの大震災のすぐ後ですから皆さん大変だった時期です。 これは恐らく御当地で作られたものでしょう(写真⑥)。昔は当たり前のように作られていたものです。 これは囲炉裏のある間、今で言えば居間です(写真⑦)。 囲炉裏ではこういう薪を使います。隣には餅搗き用の臼と杵があります(写真⑧)。昔は我が家でも餅をついていましたが、親が死んでからは作らなくなりました。 まあ、自分自身ももう餅は食べない方が安全だという年になってきましたが。餅を食べるときは小さく一口サイズにしてから食べましょう。
これを見ると現在フローリングと呼ばれているものと大差ないことが分かります。こちらの方が天然木の一枚板ですからはるかに高級なのですが(写真⑨)。 この間は「したえん」と呼ぶようです。「下縁」と書くのでしょうか。右の机は文机でしょう。後方にはムシロ織機もあります(写真⑩)。 居間の壁にはザルや袋が懸かっています。枯れた植物はホオズキでしょうか。ホオズキは平安時代から去痰鎮咳、解熱の妙薬とされ、こうして保存して居たのです(写真⑪)。 居間の上部です(写真⑫)。茅葺きの場合、囲炉裏の下には天井がないのが一般的です。 弁慶です(写真⑬)。囲炉裏の上方に吊り下げ、ワラの芯に刺した竹の棒に魚を刺して燻製にします。まあ、この姿が源義経の配下だったあの弁慶の立ち往生の姿に似ているためこの名が付きました。一般に、サケ科以外の川魚は水っぽくてまずいのですが、こうやって燻製にするとおいしくなります。 こう言うところによくあるのが衝立です(写真⑭)。4文字書かれていますが、読みにくいです。 ムシロ織機です(写真⑮)。ムシロは生活の場や農作業の時の必需品でした。農家ならいくらでもあるワラを使いこの織機で夜なべ仕事に自作したのです。 草鞋がありました(写真⑯)。これも往時は自作しました。すり切れると堆肥になると言う良さがあります。今どきの靴やサンダルは単なるゴミですが。 では奥に入りましょう。 続く
|
|
2012年5月2日(水)
今、福島県南会津町前沢にいます。ここは重要伝統的建造物群保存地区に選定された集落があります。
集落の入り口付近にあるのが前沢曲屋資料館を見学中です。元は馬屋だったところにも往時の道具類が展示されていました(写真①)。もちろん、昔はここで馬を飼っていたのです。今は耕耘機と軽トラに変わりました。 これは唐箕です(写真②)。 さて、これは何だったでしょう(写真③)。蔵の鍵でしょうか。それとも土でも掘る農具だったでしょうか。 大きな篭を持った女性です(写真④)。まあ、これだけ動いていれば今風の健康食品もサプリも必要なかったでしょう。 小学生くらいの女の子が柴を背負って歩いています(写真⑤)。笑顔が印象的です。この子たちには明るい未来が必ずある、そういう感じです。 これは簑です(写真⑥)。 当ブログにも頻繁に登場するスーパーマシン、唐箕です(写真⑦)。江戸初期に発明され、現在でもほぼ同型で現役という凄みを感じます。 たくさんの簑があります(写真⑧)。最近作られたものもあるでしょう。まだ作れるところが田舎の底力です。 これは「タガラ」という名札が付いています(写真⑨)。見たところ、縄で編んで口の部分を木の蔓で補強した篭を背負い板にくっつけたもののようです。さっき紹介した女性が背負っていたのもこれでしょうか。 足踏み式脱穀機です(写真⑩)。 背負い板です(写真⑪)。今でも同様の物が普通に使われています。車の走れないしところはこれで人が運ぶしかないのです。現在では運搬用の牛馬を探すのが難しくなっています。調教した牛馬でないと使えないからです。そうそう、松rに使う馬も大変なようです。 これは炭俵編み機と思われます(写真⑫)。往時の人は何でも自作しました。それだけ生活能力が高かったのです。 背負い篭です(写真⑬)。竹製なのでそれなりに重かったでしょう。上に乗っているのは網のように見えますが何に使ったのでしょう。 これは先端部の刃だけ金属になった鍬です(写真⑭)。 手前は竹の篭、奥の黒い機械は藁切り機です(写真⑮)。藁切り機は主に飼い葉を作るのに使ったのでしょう。 往時の写真です。まだ生まれて間もない仔馬でしょう(写真⑯)。 小宇学生くらいの女の子です(写真⑰)。今ご存命なら何歳くらいでしょうか。 馬で畑を耕しているところです(写真⑱⑲)。 女性がソリで堆肥でも運搬しているところでしょうか(写真⑳)。後方に電柱も立っているし、服装から見ても昭和30年代と言うところでしょうか。
続く |
|
2012年5月2日(水)
今、福島県南会津町にある奥会津博物館・南郷館にいます。
見学が終わり、1600時にここを出発、国道289号線、国道401号線、国道352号線とひたすら走り、1630時、同じ南会津町の前沢と言うところにやってきました。 ここに重要伝統的建造物群保存地区に選定されている集落があるので見学することにします(写真①)。生活の場である集落なので車は国道沿いの駐車場に止めて歩きます。
解説がありました(写真②)。明治40年に大火があり、翌年再建されたそうですが、それが統一的な景観ができる要因になったそうです。ここは2011年(平成23年)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 集落は国道の対岸にあるため橋を渡ります。この川は館岩川と言います(写真③)。 こういうマナーは看板が無くても守りましょう。まあ、余り言い過ぎると、「それなら選定なんか受けなければいいだろう、どうせ当ブログのような物好きが日本中から集まってくるのが分かっているのに・・・」という事になります。まあ程よいところが大事です(写真④)。 これは前沢集落です(写真⑤)。 この濃い桃色の花は何でしょう(写真⑥)。ちなみに、この空の色、どんより曇っていますが、カメラには結構明るく見えるようです。雲に引っ張られて花が露出不足になりました。写真に雲が入るときは露出を明るめに補正しましょう。 さて。集落の入り口付近にあるのが前沢曲屋資料館です(写真⑦)。もう1635時なので閉まっているかと思ったら開いていました。見学することにしましょう。 重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは平成23年ですがこの資料館ができたのは20年以上前の平成2年でした。こういう努力が実を結んで選定されたと思います(写真⑧)。町並みというのは、文化を伝えるという気持ちがないと後世には残せません。 薪です。短く切られた丸太を斧で割っていきます。軒下で乾かさないと囲炉裏で燃やしたときに大量の煙が出ます(写真⑨)。運搬用の大八車とソリがありました。 この位置から見ると曲屋であることが分かります(写真⑩)。 中に入りました。この辺は土間と馬屋があったところです(写真⑪)。 これは鋸です(写真⑫)。恐らく全部が横挽き鋸、つまり伐採用の鋸だと思うのですが。上から2番目と3番目は木挽鋸かもしれません。 ここは山仕事の道具を集めたものです(写真⑬)。もちろん、鋸も同じです。 さて、この着物、綿の入った半纏でしょうか(写真⑭)。当ブログが小学生だった昭和30年代半ば、長野の山奥では冬にこういうものを着て学校に行っていました。今で言うジャンパーになったのは小学校5年生頃だったと思います。 中央の井形の物はソリです(写真⑮)。エンジン付きの車と違い、登りは苦手でした。 これが橇に乗っている写真です(写真⑯)。こういう風に山で働けた時代、ある意味でいい時代でした。今、一億総活躍などと言っていますが、いくらでもある山で働けるようにしないと日本に未来はありません。石破君、南シナ海を守ろうという意気込みはいいのですが、本業の地方再生はどうなったのですか。 これは炭焼きの様子です(写真⑰)。炭焼きは里山の木を切って炭にし、里山には切った株からまた芽が出て木になるという循環型エネルギーなのですが、和歌山では備長炭用にウバメガシを大量伐採して禿げ山にしてしまうと言う現象が起きています。炭ならクヌギでもいいでしょうに。 これは伐採して程よい長さに切った木を筏にして運んでいるところです(写真⑱)。今は観光筏として細々と残っています。この写真を見ると当時でも客が便乗できたようです。 トイレもありました(写真⑲)。こういう施設でトイレが土足禁止というのも珍しいです。 続く |
|
2012年5月2日(水)
今、福島県南会津町にある奥会津博物館・南郷館にいます。
什器の続きです。土瓶、水差しです(写真①)。 これは左が吸い殻入れ(火入れ)という名札が付いています。恐らく、キセルで煙草を吸っていた時代に吸った煙草をこの中に入れたのではないかと思います。中央は「御神酒すず」とあります。神事用の徳利と言うことでしょう。右端は上部に口があり、醤油か何かをこの中に入れて使ったような感じです(写真②)。どれも紋様がとても美しいです。 この皿は中皿という名が付いています(写真③)。中に書かれている鳥、鶴のような感じですが、翼の縁が赤く、どういう鶴なのか見当がつきません。 これも中皿です(写真④)。山水の絵に飛ぶ鶴のような鳥が描かれていますが、この鳥の同定も難しいです。 これは大皿です(写真⑤)。このとき使っていたのはペンタックスKrですが、このカメラは欠陥品で、この写真のように途中で切れてしまうと言う事態が頻発しました。ペンタックスK10でもK20でもこういう事は一回も起こらなかったのですが。これだと一枚しか撮らない場合に取り返しの付かないことになります。これで、30年使ったペンタックスに見切りを付けてキャノンとニコンを使うようになりました。 徳利、瓶子(へいし)です(写真⑥)。徳利の方が容器としては改良型です。 平家物語を読んだ人は「鹿ケ谷の陰謀」の話でこれが出てくるのをご存じでしょう。この瓶子を倒したり首を折ったりして「平家を倒した、打ち首にした」などと盛り上がる貴族達を見て多田行綱が「こんな能天気な馬鹿どもとは一緒にやっていられない」ということで平清盛に密告したと言う話です。
その瓶子がこういう格好をしていたのです。徳利の首は相撲取りのようで折れませんが、瓶子の首なら簡単に折れたことでしょう。
左は徳利、右は「酒すず」という名が付いています。まあ、見ようによっては「酒すず」というの首の付いた壺だ言うことなのでしょう(写真⑦)。「すず」は「鈴」のことかもしれません。 左はお茶入れ壺、右が「すず」です(写真⑧)。まあ、これを見ていると、究極のところ、桶も甕の壺も樽も盥も徳利も境界のない容器も一種だと言うことになるのでしょう。 しつこいですが、これも瓶子(左)とすず(右)です(写真⑨)。もう単品で出されると見分けが付きません。 これも「すず」です。右側の首の長いものはとても美しいです(写真⑩)。乱暴な扱いをするとすぐに首がかけてしまいそうです。急須の注ぎ口と同じです。 水甕が出てきました(写真⑪)。甕(かめ)とは胴体に比べて口の比較的大きなものを指し、小さいのは壺です。甕は瓶とも書きますが、現在では瓶は「びん」と読んで、ビール瓶のような違う物を指します。 縄文時代の甕は深鉢と呼ぶそうですから、どうちがうのだなどと真面目に考えると、昔の地下鉄の漫才ではありませんが、夜も寝られなくなります。
さて、展示が変わりました。手前は往時の鍬です。全体が木製の物と、土にあたる刃の部分だけが金属になっている物とがあります。奥の方では機織りをしているようです(写真⑫)。 これは地機(じばた)と呼ばれる織機です(写真⑬)。歴史は古く、5世紀には大陸から伝来し、写真のようになったのは16世紀です。19世紀の江戸時代の終わり頃に現在も普通に使われている高機が発明され、地機は一般には使われなくなりました。見ての通り、足を突っ張り、腰で糸を引っ張って居ます。
しかし、織っている人がいささか日本人離れしていますね(写真⑭)。もっと普通のおばさんの顔の方がよかったのではないかと思います。 こういう機織りに関係する資料も展示されています(写真⑮)。 さて、1550時になりました。この資料館は1600時で閉館です。まあ、短時間で何とか全部撮影しました。明日はもう帰途に着くからです。 この南郷館には屋外に江戸時代の民家が3棟あります。残念ながらこちらも1600時で閉まるので内部は見学できませんが、外観は見ることができます。そちらに移動することにしましょう。 外観だけ紹介しておきます(写真⑯〜⑲)。 1600時になりました。ここを出発、国道289号線、国道401号線、国道352号線とひたすら走り、1630時、同じ南会津町の前沢と言うところにやってきました。ここに重要伝統的建造物群保存地区に選定されている集落があるので見学することにします。
続く
|





