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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
展示が変わりました。養蚕の道具です(写真①)。例によって詳しく紹介しましょう。
毛羽取り機がありました(写真②)。繭の表面の余計な毛を取る道具ですが、明治の頃のものと比べると格段に現代的という感じです。機能は同じでしょうが。
これは上蔟織機です(写真③)。上蔟とは繭を作る時期になった蚕を蔟(まぶし)に移すことですが、さて、この道具を蚕が繭を作る場所、つまり蔟なのか、蔟に乗せる道具なのか寡聞にして見ただけでは見当がつきません。
桑切機です(写真④)。
桑切機の先端には大きくて重いギロチンのような包丁が付いていてクワを切ります(写真⑤)。
糸枠や大きな棹秤です(写真⑥)。
これは何でしょう。大きな糸枠に生糸を巻き取る道具でしょうか(写真⑦)。
これは糸車です。大きなはずみ車の加速器で反対側の先端にある紡錘を高速回転させ、糸に撚りを掛けて巻き上げる道具です(写真⑧)。さすがに子供の遊びには使えなかったと思います。お祖母さんやお母さんの大切な道具でしたから。
これは座繰り機です(写真⑨)。複数の繭から取り出した数本の糸をより合わせて巻き取る道具です。
見た記憶の無い道具です(写真⑩)。ウシクビという名が付いています。
カセカケと言う名が付いた道具です(写真⑪)。決まった量の糸を巻いた糸巻きを架けておく道具のようです。
桑切包丁です(写真⑫)。刃先はいろいろな形があります。
上は桑摘み籠、下は切ったクワを蚕に与えるときに使う「桑くれ籠」です(写真⑬)。こういう大きな籠を盗人籠と言った思います。
蚕網です(写真⑭)。この上で蚕を飼い、ある程度蚕の糞や食べかすがたまったらこれを持ち上げて蚕は上に残り、糞や食べかすを下に落とします。下は籠になっていることが多いのですが、ここではその上に更に蚕座紙が敷かれていて簡単に糞や食べかすを掃除することができます。 蚕盆です(写真⑮)。繭を作る時期に来た蚕を拾ったりするときに使いました。カルトンとも呼びますが、カルトンは今でも宝くじ売り場やコンビニ、銀行などあちこちの窓口で使われています。
養蚕の展示は続きます。
続く
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第20回大旅行(2012年8月)
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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
文机がありました(写真①)。
煙草盆なのですが、中に入っている金属の缶は酒燗器みたいな格好をしています(写真②)。
ランプです(写真③)。ロウソクよりは安全で明るく、揺らめく光は魅力的で、今もごく一部で現役です。すすが出るのははどうしようもありませんが。
衝立に絵が描かれていました(写真④)。ご当地は中山道野尻宿があったところです。絵の場面はどうやら大名行列です。野尻宿の江戸側入り口まで来て、今まで適当に歩いてきたのを一旦止め、荷物を揃え衣装をきちんと整え、隊列を組んで宿場に入ろうとしています。大名行列がきちんと隊形を組むのは人のいる宿場だけだったようです。
庚申塔の陰から子供が盗み見ているのも愛嬌です。大名行列は今で言う祭の行列のようなもので、見るものの少ない江戸時代には結構人気があったそうです。土下座して出迎えないといけないのは将軍家と御三家の行列だけだったようです。
次の展示になりました(写真⑤)。例によって詳しく紹介しましょう。
石臼、粉を受けるたらい、上にあるのはホウキグサの箒でしょう(写真⑥)。
いろいろな大きさの篩(ふるい)です(写真⑦)。今でもフルイにかけるというように使われます。
木槌です(写真⑧)。ワラなどを叩いて柔らかくするのに使いましたが、砧(きぬた)を使って洗濯した布をしわ伸ばしのために叩くときも使ったようです。奥にあるのは鋤です。
田の神祭の様子です(写真⑨)。
田の神祭の解説です(写真⑩)。
除草機です(写真⑪)。
左は鎌があります。中央の大きなスプーンのようなものは麦土入れ機、左の4本の葉があるのは足踏み式田起し機(写真⑫)。麦の土入れは、麦の茎の根に近いところから脇芽が出るのを防ぐために土で覆う作業のようです。
各種籠です(写真⑬)。
これは土臼とか土すり臼とか呼ばれるもので籾摺り器です(写真⑭)。
これも同じ籾摺り器です(写真⑮)。これを動かすのは重労働でした。
千歯扱きがありました(写真⑯)。脱穀機です。
千歯扱きを使っている様子です(写真⑰)。
これは足踏み式脱穀機です(写真⑱)。足踏み式脱穀機が発明されたのは明治の末でした。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
生活道具の展示の続きです。左は酒小売り用の柄升、右は岡持です(写真①)。小売り用の升ですから持ちやすいように柄が付いています。岡持は花見などに行くときに料理を入れて運ぶ容器でしたが、後には出前用の容器にもなりました。
二升徳利です(写真②)。普通は一升ですからかなりの飲んべえ用のものだったかもしれません。
四角い箱は村方弁当、上に乗っているのは角樽、つまり祝儀樽です(写真③)。村方弁当は一つの箱に20個の弁当箱が入っています。本陣で使用したとありますから本陣に貴人が泊まったときに動員された人たちの食事だったかもしれません。
蝋燭立て、火鉢の入ったこたつ、左下は火鉢です(写真④)。みんな火を使うものばかり、安全な電気の有り難みが分かります。
膳と椀です(写真⑤)。宿屋や料理屋では現役です。
湯桶も普通には見かけなくなりました。漢字の訓音混じりの読み方で重箱(じゅうばこ)読みと湯桶(ゆとう)読みに区分されることがあります(写真⑥)。
箱膳です(写真⑦)。銘々の食器を一揃え箱に入れておき、食事のときは蓋をひっくり返して膳として使います。ただし、一度使った食器はお茶で汚れを洗い流してそのまま仕舞っておいてまた使うということだったのです。
今思えば不衛生ですが、台所の設備が貧弱だったこと、女性は夜なべで忙しかったことなどの事情で昭和30年代まで使われました。まあ、このくらいの方が多少のことなら食中毒にはならなくて済むと思うのですが。
どうです、こういう風に一杯やったらおいしいと思いませんか(写真⑧)。
往時の弁当箱です(写真⑨)。
江戸時代は天災地変も多かったのですが豊かな時代でもありました。芝居弁当や花見弁当も需要があったのです(写真⑩)。
お櫃とその保温器です(写真⑪)。
先ほど上半分だけ見えた大火鉢です。何か鉄串でもあるのかと思ったら鉢自体の紋様でした。右は火鉢と五徳です(写真⑫)。
これは炭をすくう道具です(写真⑬)。
これがどうも猫こたつと呼ばれるもののようです(写真⑭)。炭火の上には魚を焼く網のようなものだけ、これでこたつですからいささか危ないような気もします。
銭箱です(写真⑮)。 生活道具の展示は続きます。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
こういう展示になりました(写真①)。詳しく紹介しましょう。
これは何の拓本でしょう。「絶三尸之罪」と書かれていますが、三尸(さんし)とは庚申信仰に登場する虫ですから、この拓本は庚申塔でしょう。全国に庚申塔がありますが、明治以降急速に衰えました。 明治政府は廃仏毀釈という間違いをしましたが、一方で迷信を徹底的に排斥するという正しい政策も行いました。
人が信じないと神様も力を失って死ぬというのは本当のようです。昨今では恵方巻きなどというものを商売ではやらせた輩がいて、折角忘れられかけていた歳徳信仰復活の兆しがあります。恵方などというのは迷信ですからどの方角に向かって巻き寿司を食べても何の功徳もありません(写真②)。
この津島神社というのは愛知県津島神社のことです。無数の提灯を船に乗せて回遊する祭が有名な神社です(写真③)。
三尸の解説がありました(写真④)。徹夜して三尸が上帝に密告するのを防ぐとはいかにも中国人の考えそうなことです。
御神酒徳利です(写真⑤)。正確に言うと瓶子です。
囲炉裏がありました(写真⑥)。右手に今紹介した津島神社の掛け軸がありますが、囲炉裏のすぐ近くにこういうものを置くことはありません。展示場の都合でこうなっただけのことです。
こういう解説がありました(写真⑦)。1月15日のことを往時は小正月として祝う習慣がありました。私が子供の頃も行われていました。もう50年以上前の話ですが。
これが文中にあった大根です。家の門口や先祖の墓の前に置いたような気がします(写真⑧)。十三月と書かれていますが、解説には「1年12月の五穀豊穣を祈り、他家の見間違えのないようにと言う災難除けのまじない」とあります。いささか要領を得ません。
解説の中にある繭玉は模型を作れなかったのか、写真が展示されていました(写真⑨)。
餅花とよく似ていますがこちらは繭玉を使った飾りです。結構日本中にこういう習慣が残っています。根元の方に大根も飾られているのが分かります。
囲炉裏の煙のためか真っ黒になった箪笥や薬箱、提灯箱があります(写真⑩)。
提灯や柱時計です(写真⑪)。
左側の柱時計は珍しい格好をしています(写真⑫)。
簑、農作業用草履、右端は女性用の背当てです(写真⑬)。背当てというのは背負子で荷物を背負うとき、体と背負子の間に入れる緩衝材です。
笠なのですが、素材は何でしょう(写真⑭)。木を薄く削ったひごのような感じです。
女性の野良着ですが袖無しと言ったらいいでしょうか(写真⑮)。
モンペです(写真⑯)。昨今はまず見かけなくなりました。しかし、田舎のホームセンターでは売られていますから使う人もいるのでしょう。動きやすそうな格好をしています。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
大桑村には旧中山道の須原宿と野尻宿がありました。今は静かな山間の村ですが、往時は日本の幹線道路が通っていて大いに賑わったのです。そこでこういう展示になりました(写真①②)。
往時の宿場の旅籠の看板と思われます(写真③)。
長持ちがありました(写真④)。
この先の展示はこうなっています(写真⑤)。
さて、旧中山道は木曽街道とも呼ばれました。現在は国道19号線と中央本線が走っていますが、中央本線の塩尻以西はよく中央西線とも呼ばれます。この中央西線が全通したのは1910年頃でした。
鉄道唱歌といえば「汽笛一声新橋を・・・」が有名ですが、実は各地で作られたのです。ご当地でも木曽鉄道唱歌が作られました。多くは沿線の名所旧跡などを読み込んだ観光案内に近い内容でしたが、文語体の流麗な日本語で作られていました。
その解説と作詞者です(写真⑥⑦⑧)。作詞者は原近一、地元の小学校の校長を務めた人です。残念なことに鉄道唱歌の多くは忘れられようとしています。
その鉄道唱歌の扁額です(写真⑨)。50番までありますから本当に長いです。上に見えるのは英泉・広重による中山道六十九次のうち木曽街道の部分11宿の絵です。下は木曽街道の絵図です。
最初の4番だけ紹介しておきましょう。なお、曲は一般に知られるものではなく、現在の武蔵野音楽大学の創設者である福井直秋の作曲したものです(写真⑩)。
往時の羽釜と蒸籠です(写真⑪)。
昔はこういう厚い木の板がまな板として使われましたが、今は一般家庭では樹脂製のものが増えました。木は水を吸うので扱いにくいのでしょう(写真⑫)。
鉢、木のこね鉢、各種桶です(写真⑬)。
こて(右)、火のし(左)です。原始的なアイロンです(写真⑭)。
炭火アイロンです。右端は針坊主、下の大きな板は裁ち板です(写真⑮)。裁ち板はかなりの和裁家でないと持っていないでしょう。
燭台、丸行灯、手前の小さいのは手燭です(写真⑯)。ロウソクの揺らめく光は魅力的ですが、火事のもとでもあります。ロウソクを使うときは細心の注意を払いましょう。
続く
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