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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
大桑村の小学校のかつての備品です。こういう鍵板ありましたね。今も似たようなものがあります(写真①)。
これは教師の机でしょうか(写真②)。
水中眼鏡、縄跳び、釣り針、まあ、今とほとんど変わっていません(写真③)。
胴乱です(写真④)。今も学校に備えているでしょうか。なぜ、こういうように頑丈な金属でできているのでしょう。昔は探検用の備品だったかもしれません。
この机は往時の生徒用です(写真⑤)。普通は蓋式か引出式になっているのですがここでは開放型です。
昭和10年頃の教科書です(写真⑥)。この場面は正親町天皇が織田信長に勅使を遣わして早急に世を太平にせよと伝えているところです。歴史は戦後になるとこういう天皇中心の書き方から劇的に変わりました。現在のBSテレビなどで放映される歴史番組を見ていると聖徳太子はいなかったとか徳川綱吉はすぐれた将軍だったとか、今までの通説が全部くつがえされているような気がします。しっかり、勉強し直しましょう。
小学校はこういう感じだったでしょう(写真⑦)。昭和40年代までこういう机と椅子が使われたようです。
昭和20年代の教科書です(写真⑧)。口語体になり、仮名の使い方も現代風に変わっています。まあ、明治の文語体に慣れた人の眼には国語の退化と写ったかもしれません。
NHKのアナウンサーの国語力でさえかなり怪しい時代ですが、現在は下品で汚い(?)日本語がテレビで常時飛び交っています。より一層の国語の退化、ではなかった、変化が生じていくことでしょう。
昭和30年代の教科書です。頭が痛いといって体温を測っていますが、さて、一体何の教科書でしょう。理科、それとも家庭科でしょうか(写真⑨)。
動くオモチャをロウソクを遣って作る話です(写真⑩)。これは図画工作の教科書でしょうか。
往時のオルガンです(写真⑪)。
和文タイプライターがありました(写真⑫)。漢字を拾わないといけないですから初心者だといつまで経っても間違いだらけで文書が完成しなかったかもしれません。ガリ版は手書きでしたから正規の文章には向いていない場合もありました。MSXができたとき、夢のような機械だと思いました。
タイプライターの文字配列表です(写真⑬)。カタカナだけだったら簡単なのですが、そうしなかったのは賢明でした。
これがかの有名なガリ版です(写真⑭)。恐らく日本各地で倉庫の片隅でまだ眠っていると思われます。堀井新治郎父子がガリ版を発明したのは1894年でした。以来100年間にわたって使われました。
1980年代に理想科学が謄写版を売り出したのですが、ガリ版に比べると手間のかからない逸品でした。今でも大量に文書を作るときはコピー機より単価が安いということで使われています。
続く
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第20回大旅行(2012年8月)
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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
赤い派手な長持ちがありました(写真①)。長持ちは白木か焦げ茶色に塗ったものが多いのですが、派手な赤系統の色です。
こういうバスケットを見たことがあるでしょう。竹製かつづらフジかヤナギか素人では見極めにくいところです(写真②)。
こういうカバンもよく見かけました(写真③)。風情があっていいですね。帽子をかぶった人に似合うという気がします。
こういうものはトランクと呼ばれるでしょうか(写真④)。映画にも登場してよからぬ筋の取引に使うとか、旅行者が普通に持っているとかいう感じです。
和歌山ミカンや紀州ミカンは木箱でした。お茶も木箱を使っています。いつ頃のものでしょう。こういう行李もありました。過日、テレビで「点の記」という映画を見ましたが久しぶりに涙が出るほど感動しました。
そのとき、山岳ガイドの宇治長次郎は背負子にこの行李らしきものをくくりつけていたような気がしました。時代は197年頃、まだ日本の登山の草創期で装備は重く大きい時代でした(写真⑤)。
この長い板を見て着物の「張り板」とすぐに気がつくのは年長者か和服に関心のある人でしょう(写真⑥)。どうも、仕立てた着物を一旦分解して洗濯し、又元のように縫い直したようです。
残念ながら今は大半の服地が市役所に資源ゴミとして回収されています。回収された布はどうやって再生しているのでしょうか。特に和服は安い物ではありませんが。
たらいと洗濯板です(写真⑦)。電気洗濯機が普及する昭和40年代まで使われたものです。洗濯は重労働でした。湯沸かし器もない時代、冬期の手洗い洗濯は特に大変です。
現在は当ブログでも洗濯1時間、乾燥機3時間で済ませています。洗濯物を干す必要もないのでなんという省エネ!と思ったら大変な電気と水を使っていました。できることは手でしようという生活を心がけた方がいいかもしれません。
足踏み式ミシンです(写真⑧)。小学校の家庭の時間に動かしましたが、回すのに少しこつが入ります。すぐに逆回転して糸を切ることもありました。
これは大工道具ですがいつ頃のものでしょう。チョウナ、カンナ、墨付け、縦横挽きの鋸、木に深い線を入れる道具と思われるものなどが入っています(写真⑨)。
冬の遊びと言う名札の付いた箱の中です(写真⑩)。下駄スケートや現代のスケート、木ソリがありました。
さて、展示が変わりました。どうも小学校の教室のようです。なお、現在時刻は1400時、見えている時計は止まったままです。よくあるようにわざとこの位置で止めたかもしれません(写真⑪)。詳しく紹介しましょう。
先の大戦中のプロパガンダとして書かれた扁額です(写真⑫)。現代の三代目の暗殺者が今同じようなことを言っているようです。文化大革命といい、我が国の先人といい、どこかの三代目といい、この手のものが成功することはありません。
往時のランドセルです(写真⑬)。おそらくは赤かったと思うのですが。平成になってからジェンダーフリーなどといいうへんてこな主張をする一味が暗躍し勢力を伸ばしてきました。その一味は今でも文化人のような顔をしてテレビに出ています。女の子に赤いランドセルを背負わせるな、ひな祭りはするな・・・・、などなど、昔、毛沢東が言い出した文化革命によく似ていました。さすがに二番煎じに騙されるほどバカな日本人は少なく、今は下火になっています。こういうランドセルを見るとそのことを思い出しました。あの福島瑞穂もこの一味です。
木曽西高校の旗と校歌です(写真⑭)。木曽西高校は1982年(昭和57年)まであった学校で、現在の木曽青峰高等学校の前身の一つです。
この木曽高校は1982年に木曽東高と木曽西高が統合してできた学校です(写真⑮)。
これは島崎藤村の揮毫によるものと思います(写真⑯)。簡単なようで意外に読みにくいです。急に明治も遠くなったと感じました。え?、単に教養が無いからだって・・・・。
学校の展示は続きます。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
卓上コンロです(写真①)。今だと電気コンロやカセットガスコンロという便利なものがありますが、この写真で左はアルコール、右は炭火を熱源とするコンロです。理科の実験で使うアルコールの要領でやっていたのでしょう。
これも卓上コンロで燃料はアルコールです(写真②)。中央の鍋らしいのは消火キャップだそうです。
往時の料理の教科書らしきものがありました。まずは焼き物の段です(写真③)。
このころは直火焼き、鍋焼き、天火焼きという区分がありました。この図は天火の種類です(写真④)。一番上の段は電気天火、今で言うオーブンに似ているでしょうか。
左下はどうも七輪の上にオーブンの構造部だけを乗せたという感じです。焼くというか、炙るというか、蒸し焼きにするか、燻製にするか、かなり微妙な感じです、右下は簡易天火ですが、さてどうやって使ったのでしょう。
これは蝿帳です(写真⑤)。往時は汲み取り式便所だったため、蝿が至る所にいたので全面に網戸付きの箪笥を使ったのです。
こういうザルも普通にありました。今は大半が樹脂製に変わりました(写真⑥)。
これは何でしょう。店が客に提供した買い物袋、又はツケが当たり前だった頃の通い袋でしょうか(写真⑦)。
昔の冷蔵庫、これは氷冷蔵庫です(写真⑧)。今のク−ラーボックスと同じ感覚で使うことができました。電気冷蔵庫よりも冷やす力は劣っていましたが、それでもビールやサイダーはそれなりに冷たく感じたと思います。ちゃんと氷を売って歩く商売もありました。今でもコンビニには必ず氷が置かれています。
冷蔵庫の上にはサイダーやコーラの瓶がありました。確かにおいしかったです(写真⑨)。今はもうビールの方がはるかにおいしい年になってしまいましたが。1リットルのコーラ瓶は初めて見ました。スプライトなどというものもありましたね。
すり鉢とすりこぎです(写真⑪)。これは余程完成度が高かったのか、今でもこのままで売られています。
ねずみ取り器がありました(写真⑫)。余り捕まらなかったような気がしますが。今でも家のどこかに穴があるとネズミが侵入して巣を作ります。天井裏や壁の中でごそごそ音がしたらまずは追い出し、家の基礎付近や壁などををよく見てごく小さい穴があったら網や詰め物で塞いでおきましょう。
移動式の置きかまどです(写真⑬)。昭和初期に普及したもので、ガスや石油コンロが普及する昭和30年代まで広く使われたと思います。小さいながら煙突付き密閉式なので使い勝手は開放式の七輪よりもよかったでしょう。
奥の大きいのは水甕、手前は通い徳利です(写真⑭)。現在、お酒の量り売りは専門店などで復活しつつあります。容器は簡単に割れないPETに変わっていますが。
大きい桶は味噌置け、周囲のおちょぼ口の甕は焼酎甕です(写真⑮)。
よくは分からないのですが、こういう竹を編んだ細長い駕籠が味噌桶の中に入っていてそこに自然にたまる「たまり」をこの柄杓ですくったようです。恐らくすくったものは「たまり醤油」になったのでしょう。それとも別の調味料になったかもしれません(写真⑯)。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
メンコです。昭和30年代に特にはやったと思います。野球選手、力士、漫画の主人公などが描かれていました。歌舞伎役者もあったと思います(写真①②)。今のプロ野球は駄目ですね、少し有名になるとみんな大リーグに行ってしまいますから。
日本が全体的に不衛生で蝿や蚊が跋扈していた頃、立ち向かう武器はこれでした。左は蝿取りリボン、右は殺虫剤の噴霧器です(写真③)。リボンは油断するとヒトも捕まるやっかいなものでした。噴霧器は子供のいいオモチャになりました。
電気炊飯器です(写真④)。今ならあって当たり前の家電製品ですが、歴史的に見れば家庭の主婦の生活に劇的な影響を与えた電気製品です。初期のものはスイッチをいれれば自動的に炊きあがるというものでしたが、しばらくしてタイマーが付きました。
「寝ている間にご飯が炊ける」というのは今では当たり前ですが、かまどの時代からするとそれこそ夢のような話でした。出始めの頃は「これは女を怠け者にする道具だ」と言った評論家もいたそうです。時代の流れを読めない評論家はいつの世にもいます。
これはお櫃です(写真⑤)。かまどでご飯を炊いたときにご飯を移し替える容器です。白木の容器ですから適当に湿気を吸っておいしいご飯を食べられました。やがて電気ジャーなるものや電気炊飯器に優秀な保温機能が付くと出番はなくなりました。
湯呑みセットです(写真⑥)。往時の田舎では来客があると「まあ、お茶でも飲んでいけ」と言っていました。湯は囲炉裏でいつでも沸いていました。もちろんそういう人間関係だったのですが、土間のある家が多かったことも影響したのだと思います。
これから家を建てる人は応接間の代わりに4畳半くらいの土間を作ることをお勧めします。そこなら身構えずに土足のまま話ができるからです。
展示が変わりました(写真⑦)。いろいろな台所道具です。例によって詳しく紹介しましょう。
このライポンF、野菜、果物、食器洗いに使えたそうです。今だと合成洗剤をこういうように使う人はいませんが、ある事情がありました。
この洗剤が作られたのは1956年(昭和31年)、現在の厚生労働省の依頼を受けて作られたのです。理由は当時の野菜が人糞を肥料にして作られていたため、寄生虫が一杯いたことでした。
当時の野菜は生では基本的に食べられませんでしたが、それでも子供のお腹には寄生虫が一杯という状況だったのです。学校で虫下しを飲ませましたがもっと上流で何とかしようということで登場したのがこの洗剤だったのです(写真⑧)。奥にはだるまの団扇があります。商店が顧客に配ったこともありました。
貝殻やひごで作った杓子です(写真⑨)。今でもヒオウギやホタテの貝殻は簡単に手に入りますから自作することもできます。
左は歯ブラシ入れ、右は鏡です(写真⑩)。
台所の小物セットです(写真⑪)。こういう穴の空いた板、はやった時期がありましたね。システムキッチンになると出番を失ったようです。
どういう由緒なのか分かりませんが、いつでもどこでも通用する心構えです(写真⑫)。 残念ながら現状では暗殺を企てたりヘンテコな像ばかり造りたがる悪しき隣人たちばかりでそう達観ばかりもしていられませんが、「したたかにしなやかにうつくしく」生きましょう。
往時はあって当たり前のものでした。左は味噌壺、右は羽釜です(写真⑬)。
まあ、こういうものなら今も似たようなのがあります(写真⑭)。金属製の容器をうっかりもらうと捨てるのに困る時代です。
こういう弁当箱を使った人も多いでしょう。箸入れ、醤油差し、何かの型、今もあります(写真⑮)。
美しい皿です(写真⑯)。民芸品と言ったらいいでしょうか。
生活用品の展示は続きます。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
居間の展示の続きです。堀りこたつが登場しました(写真①)。
奥にある赤い板は何かの天板でしょう。描かれている絵が山水風でとても美しいです。手前には行火と火鉢があります。火鉢だから寒そうな山の絵など描かなくてもいいと思うのですが(写真②)。
湯たんぽです(写真③)。電気行火が登場したときにかなり減ったと思うのですが、湯たんぽの優しい暖かさが見直されているようです。これでも何か巻かないと低温やけどの恐れがありますからご注意を。
左のブリキ製の容器は行火だと思いますが違うかもしれません。右は豆炭を使う行火で結構使い勝手がよかったです。下に敷いている焦げ茶色の敷物は渋紙です(写真④)。
ぜんまい式の柱時計は日本中に残されています。毎日のように巻かないといけませんがそれは年寄りの仕事でした(写真⑤)。
カラーテレビです(写真⑥)。よくよく見るとUHFのチャンネルも付いていました。UHF放送は1968年(昭和43年)頃に始まったと思います。このテレビは東芝製ですが、なぜかビクターのマスコットのような犬が上に置かれています。とても残念なことですが、東芝も空中分解の危険が差し迫っています。こんな大企業をつぶす人ってどういう人なのでしょう。
中央の赤い筒状のものは蚊取り線香です。今と同じ格好です。右は往時よく使ったポータブル電蓄です。モノラルだったと思うし音は安っぽい金属的な音でしたが、とにかくレコードはなりました。5年もしない内にいわゆるステレオが比較的安価で買えるようになり、ポータブル電蓄はお蔵入りになったと思います(写真⑦)。
さて、ちゃぶ台です(写真⑧)。食器、箸立て、調味料、日本酒があっていわゆる食卓です。まだ子供の学習机が簡単には買えなかった頃、このちゃぶ台は勉強机にもなりました。今のようにテレビもゲームもスマホなるものもありという時代はある意味で不幸な時代です。
かなり古い扇風機です(写真⑨)。
1970年(昭和45年)に大阪で開かれた万博の写真です(写真⑩)。
その万博で売られていたバッグと思われます(写真⑪)。
往時のオモチャです(写真⑫)。乾電池で動く電気モーターを使ったオモチャもありました。この頃はプラモデル全盛の時代でもあったと思います。モーターの多くはマブチ製でした。今は駄目ですね、スマホにパソコンなんて無ければよかった・・・、まあそうもいきませんか。
勉強机が買えなかった頃、ちゃぶ台が代わりになりましたが、このミカン箱も机になりました(写真⑬)。
捨てるのに難渋するような家具や道具に囲まれて生活する現代の人の方がある意味でよほど不幸せだと思います。私が死んだらこの荷物誰が片付けてくれるんだろうなどと悩みませんか。それが執着心を生んでいつまで経っても安心立命の境地には至りません。今の時代、お墓も作らない方が賢明です。誰が守ってくれるのだろうと心配で夜も寝られないのではそれこそ意味がありません。位牌があれば十分です。
ミカン箱の上にあった往時の教科書です。英語だと思ったら日本語のローマ字表記の教科書でした。さて、何の教科だったのでしょう(写真⑭)。見ただけでは見当がつきません。
涼しげな団扇です(写真⑮)。
往時の回覧板です(写真⑯)右側は赤痢と日本脳炎に関すること、左側は体温計や水枕の実費配給の宣伝です。売られていたのは体温計、水枕、腹巻き、バリカン、高級生理帯、安全剃刀でした。
日本脳炎は深刻な感染症でした。この回覧板でも予防接種をを呼びかけています。現在70歳以上の女性なら「高級生理帯」と言えばあれのことかと見当がつくでしょう。
居間の展示は続きます。
続く |






