|
2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
電話機や切手、牛乳箱などがあります(写真①)。どこにでもあったもので特別珍しいわけではありません。
とはいうものの、こういう看板はもう見かけなくなりました(写真②)。場所によっては今でも切手と印紙は民間人も委託を受けて販売することができるようです。
大桑牛乳と書かれた箱です(写真③)。今では樹脂製の赤い蓋の箱を一番よく見かけます。ご当地で生産した牛乳を使ったこういうように配達をしていました。
これは昭和30年代の牛乳の生産工場の様子です(写真④)。
ご当地の牛乳生産の解説です(写真⑤)。農協が中心になって事業化したようです。学校給食にも使われたとか、おいしかったでしょう。
農協も組合員に肥料や農機具の押し売りなどせずにこういう事業をすればよかったのです。阿倍さんが総理大臣になった頃はヘンテコな全中の親玉が「選挙で落とすこともできるんだぜ」などと口走って悪の権化みたいなみたいな印象を受けました。その後は安倍政権に干されに干されて干しダイコンのようになり、今は少しはまともなことを考えられる組織になったようです。
残念ながら昭和50年代後半には乳牛生産が減り始め、牛乳事業も採算割れとなり廃業のやむなきに至りました。
これを読むと牛乳瓶が昭和45年に学校給食用のものから200CCに切り替わったことが分かります。それまでは180CC、つまり1合でした(写真⑥)。 往時の給食のパン(木箱)と牛乳瓶(黄色い箱)を運んでいた箱です(写真⑦)。よくこういうものが残っていましたね。
さて、往時の居間の再現のような展示になりました。時代はカラーテレビの様子から昭和40年代中頃と言ったところでしょう。後で分かったことですが、このテレビUHF対応でした(写真⑧)。例によって詳しく紹介しましょう。
これは大桑村警防団の法被です(写真⑨)。警防団は1939年から1947年まで存在した組織で、今のの消防団の前身、当時は空襲や災害から地域を守る組織でした。
美しい人形です(写真⑩)。
元々は茶箪笥ったのでしょうか。神戸の有馬温泉のパンフレット、美しい重箱、こけしがおかれています。名代土産の中身は何だったでしょうか(写真⑪)。
往年の木製ラジオです。右は金魚鉢です(写真⑫)。こういう金魚鉢、泡を発生させなくても水草を入れておけば大丈夫と言っていなかったでしょうか。
こういう格好の灯油ランプは今でも売られています。右はいわゆる置き薬でしょう。箱の上におまけの風船らしきものが置かれています。医者もおらず薬局も遠かった時代、こういう薬が国民の健康を守りました。余り薬自体を飲まなかった時代ですから結構効いたと思います。偽薬でも場合によっては効くのですから(写真⑬)。
こういうように本物の板で作り要所を金具で補強した箪笥も懐かしくなります。現在の多くの箪笥は使われている接着剤が30年くらいで劣化するのですが、こういう板作りのものは100年でも使えます(写真⑭)。
ダンロップ製の安定枕です(写真⑮)。氷枕として使ったような気がするのですがどうでしょうか。あのダンロップが作ったものなのでしょうね、まあ、タイヤもこの手の枕も素材は同じだから作れるのでしょう。
続く
|
第20回大旅行(2012年8月)
[ リスト | 詳細 ]
|
2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
山仕事の道具の続きです。
ご当地野尻営林署で使われていた窓付き鋸、それにマサカリです(写真①)。 重複しますが、マサカリ、皮引き鎌、鳶、大鳶です(写真②)。山仕事と言うよりも大昔の軍隊の歩兵の武器という感じがします。まあ、武器の方が農具から派生したのでしょう。
木製の滑車、かんじき、輪かんじきです(写真③)。滑車を使うと引っ張り上げる力が半分で済むと言うことは経験的に知られていました。
ショーケースの中の展示品です。上は両手挽き鋸。巣の下の細長いのは曲尺(かねじゃく)です(写真④)。
穴開け用のボート、野鎌、鉈とその鞘です(写真⑤)。
中央の小さいのは刻印、大きい刃が2本あるのは輪尺、つまり直径を測る道具です。下は地下足袋と巻き脚絆です。
明治も中頃を過ぎると足下は地下足袋に草鞋ばき、地下足袋の上に更に脚絆か巻き脚絆(ゲートル)という装備になっていたようです。映画「点の記」でもそういう装備で立山の剱岳に挑んでいたと思われます(写真⑥)。
それにしても感動しましたね、「点の記」という映画、立山の美しい映像、後ろを流れる重厚にして軽快なバロックの音楽、そしてガイドの宇治長次郎のさり気ない笑顔と富山弁、久しぶりにみる感動的な実写映画でした。ちなみにこの感想は2017年1月にテレビで放送されたものを見て書いています。
いろいろな道具が並んでいます。左上にある変わった形をしたものは「せん」と呼ばれ桶作り専用の道具です。他の道具も少なくとも一部は桶作りに使われた道具です。おけは部材を丸く削ってタガで締めて水密性のある容器を作るのでこういう特殊な道具とそれに見合う職人の技術が必要です。
縄文時代以来、容器は重要な存在でした。桶は焼き物と違い常時修理が必要なため、少し大きめの集落には必ず桶職人がいて、今で言う「飯が食える」職業だったのです(写真⑦)。
さて、山仕事の話はこのくらいで終わります。こういう展示になりました(写真⑧)。「大正〜昭和の記憶」という展示です。今思うと明治は遙か昔という感じですが、大正から昭和30年代までは少し昔、そんな感じがします。どんな展示でしょうか。
まずはこれ、写真館の看板です。上の方には三脚付きの大型カメラを構えた写真師がいます(写真⑨)。
タバコの前途は限りなく暗いですね。肺疾患の最大の元凶ですから余程の人でないと買えないでしょう(写真⑩)。
昭和33年当時のタバコの価格表です(写真⑪)。目に付くもので現役と言えばハイライトです。1958年(昭和33年)当時は70円、2014年(平成26年)から420円、つまり6倍、貨幣価値を考えればこんなものかという気もします。次の税制改正で健康対策のために一箱千円か2千円にしろと言う意見もよく聞かれます。
この本棚、上に方には1970年代などそれほど古くない時期の雑誌が置かれています。その下の引出はタイムカプセルで引き出すと懐かしい記憶が蘇るそうです。ここに来てやってみませんか(写真⑫)。
往時の秤です。重量貨物用です(写真⑬)。
往時の箪笥です(写真⑭)。少なくとも湿気を吸うと接着剤が劣化してぼろぼろになるような現代の箪笥ではないようです。
ご当地の小学校の備品だったオルガンでしょうか(写真⑮)。往時、オルガンは学校の常備品で地元の有志や卒業生が学校に寄付したものも多かったのですが、統廃合で行き場がなくなったものもたくさんあります。
続く
|
|
2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
次の展示は森はどんな役割を果たしているかということです。
まずは山の幸です。木、材木、紙、キノコ、山菜などなど、まさに山の神からのありがたい贈り物です(写真①)。 安らぎを提供します。新緑や紅葉は山が着飾ってヒトを喜ばせてくれます。森林浴やキャンプもいいでしょう。松本伊代とかいうのが京都の嵯峨野にある線路に侵入してニュースになっていましたが、このパネルの左上の写真のようなことをしてはいけないということです(写真②)。五十歳にもなってそんなことも分からないのでしょうかね。¥
この役割が一番大切なことだと位置づけられるようになりました。山は環境を守る為に重要な役割を果たしています。かつてヒツジを飼うためだけに世界中の木を切り倒した西洋の野蛮人がいました。
同じ頃、日本では一本の木を倒すのに山の神に感謝し、切り倒せばその株に挿し木をするとか、近くに子苗を植えるとかしていました。こういう考えを世界中に広めないといけません(写真③)。
災害を防ぐのにも重要な役割を果たしています(写真④)。この意味では針葉樹は好ましくありません。無いよりはましですが。
ダムは昨今は評価が分かれるところです(写真⑤)。ビーバーが草原に造ったダムは環境に好ましい影響を与えるそうですが、日本の急流のダムでは普段は水甕になっても大雨の時に却って洪水の犯人になったりします。
さて、こういう展示になりました(写真⑥)。左はご当地の大桑村にある天然記念物に指定されている樹木です。右は山仕事の道具です。
では、山仕事の道具から紹介しましょう(写真⑦)。
例によって詳しく紹介しましょう。簑と菅笠(もしくは桧笠)です(写真⑧)。往時の雨具です。
これは横挽き鋸です。鋸には二種類あって横挽きと縦挽きです。刃の構造が違うため、横挽きは伐採用、縦挽きは繊維の方向に沿って縦に切り、往時は主として板を作るのに使いました(写真⑨)。写真で一番左の鋸は刃が跳んでいますが、おがくずが出やすいようにする工夫です。ここにある細身の鋸はすべて伐採用の横挽き鋸です。
この写真でアは「造林作業用」と言う名札が着いています。イは「桶用材玉切り用」と言う名札が着いています。玉切りというのは伐採した後で更に用途に合わせて規定の寸法に切って短い素材丸太を作ることをいいます。横挽きには違いありません(写真⑩)
これは浮世絵にも頻繁に登場するのでご存じでしょう。木挽鋸です(写真⑪)。
江戸時代、この鋸で製材をしていました。これは葛飾北斎の富岳三十六景の一枚です(写真⑫)。電動丸鋸が登場するまでこのやり方が続きました。木挽は伐採よりも根気の要る仕事だったと思います。尤も、電動丸鋸になると今度は指を切るという災害も多発するようになりましたが。
この3本は伐採用の横挽き鋸です(写真⑬)。
中央上はカモシカの皮を使った腰皮、下は背負子です(写真⑭)。腰皮は尻皮、尻当てとも言うようです。まあ、どこにでも座れるのですが、結構重いと言う難点もあります。山歩きなら1グラムでも軽い方が良さそうです。
これはすべて伐採用の窓付き鋸です(写真⑮)。
山仕事の道具は続きます。
続く
|
|
2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
こういう展示になりました(写真①)。これは面白そうです。詳しく紹介しましょう。
まずは山の神を祀ります(写真①の2)。
元伐之図です(写真②③)。
この図は伐採した木を現地で皮を剥いでいるように見えます(写真④)。
まるで素麺流しのような樋を作り木を流しています。これは伐採現場に近いところから谷川を経て支流か本流まで木を流すのに使ったようです(写真⑤)。
さて、本式の川流しになりました。川には浅瀬や岩礁が有りそこで引っかかって滞留する木もたくさんあったので一本一本手作業で押して流れるようにしています(写真⑤の2)。管狩りと言ったようです。
中流域の美濃国下麻生湊、現在の岐阜県川辺町又は七宗町で流れてきた木を集め筏に組んで下流に流しました(写真⑤の3)。
犬山あたりでさらに大きな筏にして木場まで運んだそうです(写真⑥)。
さて、筏流しの話はこれで終わりです。
木曽五木の柱の一つ、アスナロの柱です(写真⑦)。アスナロはヒノキになり損なった木で「明日はヒノキになろう」と言っているとされますがもちろん俗説です。ヒノキよりも大量のヒノキチオールという揮発性物質を含み殺菌力と耐湿性でぬきんでているため、最高級のまな板材とされています。 イノシシがいました(写真⑧)。昨今は住宅地にも出没してヒトも怪我をする事態になっています。イノシシ肉を鍋にしたぼたん鍋、とてもおいしいです。
山のことわざという展示がありました(写真⑨)。詳しく紹介しましょう。
直すは一時、残るは末代、これは意味が分かりそうです(写真⑩)。
まずはこれです(写真⑪)。いい言葉ですね。現在では三千メートル級の山が一級とされる風潮がありますが、それは単なる遊びの登山の世界、本当は千メートルでも木、木炭、キノコ、山菜、魚など恵みの多い山こそ尊いと言うことでしょう。
残念ながら山の恵みは今は完全に見逃されています。石場君のように上を見るしか能のない大臣では足下のお宝を活かすことはできなかったでしょう。
「木もと竹うら」とは難しい言葉です(写真⑫)。木や竹を細工するときの葉物の順番を示した言葉です。今では専門の職人にしか伝わっていません。
杉は谷、桧は腹で松は峰、これは山のどこに木を植えるのがいいか、適地適木と言うことでしょう(写真⑬)。現在も通じるかどうかは不明です。乾燥や加湿、耐寒、耐陰といったことを総合的というか端的に言うと往時はこうなったということです。
これも似たようなことです(写真⑭)。カラマツは日本固有種で針葉樹の仲間としては珍しく落葉します。建築材としてはいささか難があるようで合板や積層材として使われることが多いようです。 木の話は続きます。
続く |
|
2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
資料館の中は見学して今いるのはロビー付近だと思います。奇妙な人面土器がありました(写真①)。
テレビに登場したことがあるようです(写真②)。過日、テレビのなんでも鑑定団で「国宝級の曜変天目」が登場して2500万円の値を付け盛り上がっていました。
地元の博物館が早速食いついたのですが、どうやら3000円ほどの偽物だったようです。それでも世界を賑わせたということでは話題性十分ですから、当資料館のこの展示を見習って、「テレビに出たあの幻の国宝級の茶碗」として展示してみてはいかがでしょう。
徳島県には博物館も考古資料館もあるようですから「話題になった茶碗」と言うだけでも値打ちがあります。でも誰かが買う前でよかったですね。
遅ればせながら資料館の挨拶です(写真③)。
伊奈川橋の模型がありました。山梨県の猿橋と同じ刎橋(はねばし)の構造です。これは1733年に架橋したときの設計図を元に復元した精巧なものです(写真④)。実は猿橋の方も1984年の復元で、こちらは下の谷川を含めて国の名勝になっています。猿橋はテレビの笑点で有名な大月市にあります。
残念ながら伊奈川の方は、鉄筋コンクリート橋になり往時の風景は失われました(写真⑤、⑤の2)。
ご存じのように木曽街道六十九次・野尻では「伊奈川橋遠景」という英泉筆の浮世絵が描かれています。もし、昔と同じ場所に往時と同じ刎ね橋の工法で復元していたらこういう感じになって猿橋と同じように観光地になっていたかもしれません(写真⑥)。大桑村には須原、野尻の二カ所に中山道の宿場があったのです。
さて、当資料館には自然に関する展示もありました(写真⑦)。
大桑村と森の話です(写真⑧)。
この柱は木曽五木の内のコウヤマキでできています(写真⑨)。
これが木曽五木です(写真⑩)。江戸時代の初期に全国で城郭、神社仏閣、武家屋敷、民家の建設ラッシュが起こり日本中の山が荒廃しかけたのです。それを防いだのが木曽五木のような伐採禁止令でした。
木は葉を取り木の皮を剥いだ標本で見比べると同定は困難です。多くは葉の違いで分かるのですが、アスナロとサワラはヒノキと間違えることが多く、誤伐を防ぐために一緒に伐採禁止になったようです。コウヤマキは霊木で秋篠宮悠仁親王のお印にもなっています。
明治になると木曽一体は天皇の御料地になりました。これはそれに関する掲示です(写真⑪)。戦後は国有地に編入され、営林署が管理しています。そういえば営林署詐欺などと呼ばれた国有林の投資話がありましたね。今どうなっているのでしょう。
他にも樹木の標本がありますが、何度見ても皆同じように見えるでしょう(写真⑫)。
これは木曽五木の内のサワラの柱です(写真⑬)。ご承知のようにヒノキとサワラは雑種ができるほど近縁種で形もよく似ています。ただし、ヒノキのような強い香りはしないのでお櫃や桶になることもあるそうです。
カモシカがいました(写真⑭)。鹿と並んで今では害獣です。近縁の中国東北部のオオカミを連れてきて日本の山に放てばいい効果があるという説もあるようです。でもまあ、止めておきましょう。中国には言うことに困ってオオカミまで強制連行した言いかねないヒトが住んでいますから。
これは「鷹」と言う名札が着いています。さて、何という名の鷹でしょうか(写真⑮)。
四時競研なる板絵がありました。昭和23年にご当地野尻駅に旅行に来た五人の画人の合作だそうです。板は焦げ茶色のため、ストロボ撮影ではなかなかうまく写りません(写真⑯⑰⑱)。カメラのせいではないのですが。
続く
|





