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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の旧中山道須原宿にいます。場所はJR中央本線須原駅の西側です。
旧須原小学校正門を通って更に東に進みます。ここは旧中山道で江戸に向かって進行中です。これだけ見れば江戸時代に来たような気分になります(写真①)。
明かり障子はガラス戸に変わってますが往時の面影はそのままです(写真②)。
角度からすると道の向こうの正面の山は糸瀬山でしょうか。これでも1868メートルあります(写真③)。長野県ではすぐ裏山でも標高はかなり高いのが普通です。
これは清水医院跡です(写真④)。あの島崎藤村の小説「ある女の生涯」の舞台になったところだそうです。建物自体は明治村に移転したのだそうです。 この家は一階の庇に唐破風があってよく目立ちます(写真⑤)。
こういうところに来ました(写真⑥)。手前に水舟が有り、正岡子規の句碑が立っています。 これが子規の句碑です(写真⑦)。歌碑といった方が正確です。正岡子規は明治24年(1891年)に須原を訪れたそうです。山里は山が高くて月の出ている時間がほとんど無いと言うようなことですが、余りの山深さに驚いたのでしょうか、感嘆したのでしょうか。
寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月いつるほとの 空たにもなし 子規
この紀行文を書いたのは誰でしょう(写真⑧)。
ここは「木曽のかけはし」という酒の看板を掲げ、樽を並べ、杉玉を出しているところを見ると造り酒屋だと思います(写真⑨)。表札は西尾とあります。どうやら江戸時代に脇本陣を経営していた西尾氏と思われます。この右隣に一際目立つ豪勢な屋敷があります。
これがその豪勢な屋敷です(写真⑩)。
別の角度から見たところです(写真⑪)。屋敷の前に碑が建っているのですが、残念ながら写真では読み取れません。右端2文字は「西尾」と読めます。
これは解説です(写真⑫)。脇本陣だったことが分かります。慶應年間というから江戸末期に二度の大火が有り、恐らく建物は焼失したと思われますが、古文書、書画什器は生き残ったようですが一般公開はしていません。
脇本陣の少し東寄りの向かいに本陣跡があります(写真⑬)。残念ながら現在は普通の民家が建っていて面影はありません。
須原駅の近くまでやってきました。これが中山道で、和宮も諸国の大名もここを通ったかと思うと感無量です。滅びしものは美しきかな・・・、山の上にわく雲がそう言っているようです(写真⑭)。
これが水舟です(写真⑮)。こういう古い町並みを水路が通っていることはよくあるのですが、水舟というのはとても珍しいです。
ではここで引き返し、須原宿の南の端にある定勝寺に戻ります。なお、須原宿の地図はこの通りです(写真⑯)。国道との分岐点が南北2カ所ありますからどちらかで旧道に入り、定勝寺前付近に車を置いて歩くといいでしょう。
続く
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第20回大旅行(2012年8月)
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の高瀬家資料館にいます。
1151時、木曽町の福島宿の散策が終わり出発、国道19号線を南下して旧中山道須原宿のあった大桑村を目指します。
JR中央本線須原駅の前で旧道の市街地に入りました。JR中央本線須原駅の前を通過し少し南下すると道沿いに空き地があったので車を止めました。着いたのは1257時です。福島宿から1時間もかかるような距離ではありませんが、今となっては何をしていたのかは不明です(写真①)。場所は定勝寺という寺のすぐ北側と思われます。
車を止めた位置から北を見ています。この道が旧中山道、ここは須原宿の南のはずれだと思われます(写真②)。
参考までに歌川広重が描いた須原宿です(写真③)。夕立でも来たのでしょうか、慌てる人たちの様子が描かれています。まあ、山間の宿場ですから不意の夕立ということも普通にあったことでしょう。作品としては傑作ですが、須原宿の風景というといささか難点があります。
車は置いて北に向かって歩きましょう。こういう案内杭がありました(写真④)。ここからJR須原駅まで600メートルです。
少し歩くと宿場町の面影が感じられるようになりました(写真⑤)。「水舟の里 須原宿」という看板もあります。
余り細かいことを言わなければ江戸時代の須原宿もこういう雰囲気だったと思われます。
(写真⑥)。この辺りは茶屋町と言うようです。宿場町にふさわしい名です。 旅館の2階に掲げられている袖看板です。三都講と書かれています。江戸時代も終わり近くになると旅行者が激増し、宿場町も強引な客挽き、怪しげな商売などよろしからぬところも現れたようです。
そこで、この三都講の看板のある旅館は「適正サービス、適正料金で安心して泊まれることを保証します」という講に入っている、つまり品質保証の組合ができたのです。その組合員であることを示すのがこの三都講の看板です(写真⑦)。何か、現在やっていることとほぼ同じことを江戸時代にもやっていたのです。進んでいるというか、いつの時代も大して変わらないというか・・・・。
この家も往時は旅館だったかもしれません(写真⑧)。
須原宿は奈良井や妻籠、馬籠に比べると余り有名とは言えませんが、こうやって見ると結構往時の面影を感じさせます(写真⑨)。
新聞販売店です(写真⑩)。何でも売っているという感じです。和歌山にも激烈な野球の中日ファンがいて、わざわざ中日新聞か中日スポーツを取っていました。大桑村辺りと違い和歌山では何と「1
日遅れ配送」なのですが、それでも取るという物好きさには圧倒されました。
それにしても中日の落合さん貧乏神過ぎましたね。なぜ中日新聞がプロ野球球団を持っていると思いますか。新聞で中日の活躍を見たいファンにいろいろな話題を報道したいからです。あなたにはその一点が分からなかったようですね。 面影は残るものの、現状では残念ながら重要伝統的建造物群保存地区になるのはいささか無理かと思われます(写真⑪)。
太川陽介と蛭子能収が大活躍するローカル路線バス乗り継ぎの旅は残念ながら今年の放送で最終回になりました。この番組で思いの外活躍したのがこの写真にある「くわちゃんバス」というようなミュニティーバスでした。左側の祠の由緒は不明です(写真⑫)。
これは郵便局です(写真⑬)。明らかに町並みを意識していることが分かります。
後で分かることですが、これが水舟です(写真⑭)。
商店の店先です。野菜の種の他、中央に花火が置かれています。今日は8月16日でお盆の終わり、それを意識してのことでしょう(写真⑮)。
民家の美しい庭です(写真⑯)。花も美しいですが花の同定も意外に難しいです。今は園芸品種があふれていますから余計難しくなっています。
これは大桑村立須原小学校の門柱です。昭和2年建立とありますが現在は廃校になり、跡地には保育所があります。村立小学校は現在1校しかありませんから統合されたと思います(写真⑰)。
須原宿の町並みは続きます。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の高瀬家資料館にいます。
ここ高瀬家は島崎藤村の姉の嫁ぎ先です。藤村の遺品がありました。タバコセット、水差し、手炉、懐中時計などです(写真①)。いずれも藤村が使ったものです。タバコセットは藤村が還暦の祝いにもらった物だそうですが、贅沢物は使わないのでと言って当家に送られたもののようです。
これは高瀬家で使ったカルタです(写真②)。
これは西丸小園という人が描いた絵です(写真③)。
これは藤村直筆の書です(写真④)。
さて、中の資料の見学はこれで終わりです。庭に出ました。昭和2年の大火で主屋などは焼失しましたが庭や蔵は残ったようです(写真⑤)。
折からの8月の太陽が照りつける中、草木たちは元気です(写真⑥)。
新しく建てられた建物とも融合した雰囲気です(写真⑦)。
ここに来たのは2012年です。わずか150年前ほどに皇女和宮がこの近くを江戸に向かって通ったと思うと、この空を見ても感慨深いです。以来、我が国は激動の時代になりました。それは 今も国の生き残りをかけて続いています(写真⑧)。韓国などは今亡国の危機にあります。
石灯籠や石畳は往時のままです(写真⑨)。藤村もこの灯籠を見たに違いありません。
縁側にこういう展示がありました(写真⑩)。下の箱は銭櫃で、1824年から使われたものです。
これが焼け残った蔵だと思います(写真⑪)。さすが、漆喰塗りの防火を目的とする蔵だけのことはあります。行く夏を惜しむような花が一杯咲いていました。
これが蔵の偉容です(写真⑫)。
オニユリと思われる花が咲いていました(写真⑬)。滅びしものは美しきかなとでも言っているのでしょうか。
昭和2年の大火がなくて往時の長屋門があったらこの辺りももっとよかったことでしょう(写真⑭)。
さて、高瀬家の見学が終わりました。高瀬家の前から下の駐車場に降りる道があります(写真⑮)。
この坂が旧中山道の池井坂というところです(写真⑯)。
さて、1151時になりました。木曽町の福島宿の散策はこれで終わりです。観光駐車場に戻り出発、国道19号線を南下して旧中山道須原宿のあった大桑村を目指します。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の高瀬家資料館にいます。
高瀬家に残っている什器の続きです(写真①)。左から湯呑み、香炉、盃洗です。
美しい蒔絵細工の重箱や椀です(写真②)。
手前左下は硯と箱、右は椀です。後方の3個は花器です(写真③)。
中央の箱には安永8年(1779年)に山村代官かその一族の人からもらったもののようです。中身は分かりません。後方には花瓶がありますがいささか日本風ではないという感じがします(写真④)。
「怒上戸、泣上戸、笑上戸の図」です(写真⑤)。並びからすると中央の人が泣上戸と思われますが、表情はそれらしく見えません。
これは島崎藤村の何かの著書から引用したものです。旧家ですから蔵にはいろいろとお宝があったでしょう(写真⑥)。
これも蔵の中にあった資料でしょう。「水中の奇怪にして稀世の物也」とあり、河童に似た生物が描かれています。左端の分には「水虎」という文字が書かれています(写真⑦)。
これは大正10年に撮影された写真です。取られた場所は高瀬家正面玄関です。一が島崎藤村、四が島崎藤村の三男です(写真⑧)。藤村の姉が前年に死亡していますから藤村が何かの都合で高瀬家に預けていた三男を引き取りに来たのかもしれません。
これもよく見かける藤村晩年の写真です(写真⑨)。藤村の詩集は読んだけれど、小説は1ページも読んだことがないという人も多いかもしれません。私もその一人で,正直なところ、余り面白そうではありません。
この写真は藤村壮年の頃でしょう(写真⑩)。
これは有名な若菜集を出した頃の藤村です(写真⑪)。何と書いてあるのでしょう。姉が生きていた頃にこの写真を高瀬家に差し上げたのだが、何かの都合で返してくれとでも言っているのでしょうか。
これも藤村の小説「家」のモデルになった人たちです(写真⑫⑬)。
今の中央本線の線路敷きの一部は元々高瀬家の屋敷でした。そこにあった砲術指南所で弓の稽古をしている様子です。明治34年の撮影です。ここにも小説「家」の登場人物がいます(写真⑭)。
これは明治41年撮影の写真です。これに写っている庭は中央本線敷設の時に削られたようです(写真⑮⑯)。
これは明治42年に撮影された関所橋です(写真⑰⑱)。
今ある大手橋は昭和11年に竣工していますが、この位置に架けられたものでしょうか
文中にある「今はこれも永久橋になっている」という橋は恐らく大手橋を指すと思われます。写真に写っている町並みも昭和2年の大火で焼失したようです。 続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の高瀬家資料館にいます。
高瀬家は江戸時代にはここ福島関所の代官の家臣でした。その末裔の高瀬薫は文豪島崎藤村の姉の夫です。小説「夜明前」にも高瀬薫は「橋本達夫」として登場しています。この資料館には高瀬薫や島崎藤村の資料がたくさん残っています。
これは高瀬薫の上松学校の給料の辞令です。右下には郡の産馬組合の組合員証があります(写真①)。 これは島崎冬子が明治36年の元日に書いた手紙です。読めませんが新年の挨拶が書かれています。島崎冬子は島崎藤村の最初の妻ですが、明治43年に産後すぐ死亡しています(写真②)。
これは藤村の長兄である島崎秀雄の手紙です(写真③)。ご承知のように藤村は身近な人をモデルにしてあること無いことを書きまくって小説に仕立てるという面が有り、周囲の人はある意味で迷惑だったことでしょう。
これは清水崑という漫画家が描いた高瀬家の様子です(写真④)。中央の人物が高瀬家の当主かと思われます。 これは高瀬兼喜で、藤村の小説「家」の幸作のモデルになった人です(写真⑤)。
これはご当地で昭和2年5月12日に起こった大火の跡です(写真⑥)。火元は左側の×の位置、中央本線と木曽川の間の家はほぼ全焼しました。高瀬家は一番右下隅にありますが、ここも倉以外は全焼しました。
この写真はあちこちによく登場するので見た人も多いでしょう。明治39年9月の撮影です(写真⑦⑧)。後列左から3人目が藤村、後列右から2人目が高瀬薫です。
昭和2年の大火で焼失する前の大正3年に撮られた高瀬家とその長屋門です(写真⑨)。残っていれば重要文化財クラスだったかもしれませんが惜しいことをしました。
大火でも焼け残ったお宝がありました。これは櫛や笄です(写真⑩)。
これは江戸時代、高瀬家が山村代官の方術指南だった頃の資料です。各要所の行軍細図です。右手のものが何であるか分かりません(写真⑪)。 こういう写真もありました(写真⑫⑬)。明治40年撮影です。写真後列の背の高い男が高瀬薫、その左隣が藤村の姉の高瀬園子と思われます。園子のその後は悲惨で大正9年に精神病院で死亡しています。
翌年の大正10年に藤村が園子をモデルにして「ある女の生涯」を書いて発表したと言うからいささか理解しがたいところがあります。まあ、藤村の小説の多くはそういうところが内在していたようです。
これは高瀬家に残っている往時の什器です(写真⑭⑮⑯)。
続く
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