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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の高瀬家資料館にいます。この高瀬家は山村代官の家臣だったところで島崎藤村の姉の嫁ぎ先です。高瀬家や島崎藤村に関する資料がいろいろと展示されています。
展示室の様子です(写真①②)。
写真②の三枚ある人物が描かれた掛け軸を紹介しておきましょう。これは高瀬家9代目です(写真③④)。どうもこの人が奇應丸の製造販売を始めたようです。
次は高瀬家12代目です(写真⑤)。大砲が上に描かれているのは役目が大砲指南役だったからでしょう。とは言え、見た感じでは大坂の陣で使われたような旧式の大砲のようです。山下画伯のいうとおり、こんなものをお役目大事と守るより花火でも打ち上げていた方が余程世の中のためになったことでしょう。
これは高瀬家13代目の高瀬新助です。山村代官の勘定奉行兼砲術指南ですから、財務長官と防衛長官を兼ねたような高官でした。薫の父とありますが、薫は島崎藤村の姉の夫です。残念ながら明治になってから何者かに暗殺されました(写真⑥⑦)。この人物は島崎藤村の「夜明け前」にも上松菖助として登場するそうです。
さて、一階の見学が終わりました。二階もありますから見に行きましょう(写真⑧)。
二階に上がりました。すばらしい展示品が並んでいるようです(写真⑨)。
例によって詳しく紹介しましょう。まずは甲冑です(写真⑩⑪)。これを見ると山村代官は単なる関守ではなく尾張藩の辺境守備隊だったことが分かります。動乱の幕末の1864年、この甲冑にとっては最後の出撃でした。逆に言うと、こんな時代遅れ甲冑などもう出番がなくて済むならその方がよかった時代でした。武力行使を強行したのは薩長軍でした。
去年は真田丸というNHKの大河ドラマがあって真田幸村が不遇の時期を過ごした和歌山県九度山町も大変盛り上がりました。さすが大河ドラマ、少なくともその宣伝力には感服しました。
これは大坂冬の陣の攻め口図です(写真⑫)。夏の陣と比べると何重もの堀がいかに大きな防御力だったかよく分かります。それを謀略を使って埋めたのが徳川家康でした。家康は関西では腹黒い人物として今でも嫌われています。幸村は本当は淀殿など蹴散らして秀頼公を担ぎ、九州方面に逃げればよかったのです。と言っても真田幸村などはただの傭兵、残念ながらそこまでできる立場ではなかったでしょう。
これは高瀬家に伝わった種子島銃です(写真⑬)。高瀬家は山村代官の砲術指南役だったのですが、要するに世襲の○○流を名乗る華道か茶道のようなもので、幕末の実戦には何の役にも立ちませんでした。この頃までに西洋では劇的にライフルや拳銃が進化していたのです。
逆に言うとそういう武器を必要としなかった江戸時代はある意味で天国の花園だったかもしれません。現在も似たようなことを言う市民派などと称するお花畑の住民がいますが、周囲は異次元の信じられないような悪意の国ばかり、早く目覚めないと亡国の恐れがあります。
大変残念ですが、1927年(昭和2年)、ご当地では大火がありました(写真⑭)。
そのときの大火の後の写真です(写真⑮)。中央の川は木曽川、左端の四角の囲いが今いる高瀬家です。倉を残して全焼したのが分かります。元々ご当地のような谷間は風の通り道なので一旦火事になると現在の消防でも早期の鎮圧は不可能です。火事は出さないのが一番、そう思って注意しましょう。
続く
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第20回大旅行(2012年8月)
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の旧中山道福島関所跡にいます。
関所資料館の見学が終わりました。すぐ近くにある高瀬家資料館に歩いて行くことにしましょう。
左手が高瀬家です(写真①)。これ自体は倉か倉庫のようです。
屋敷内に入りました。右手が受付です(写真②)。
これが納屋門をコンクリートで作ったような門です。新しいものと思われます(写真③)。
これは島崎藤村の揮毫でしょうか(写真④)。
では中を見学しましょう。まずは高瀬家の解説です(写真⑤)。あの島崎藤村の姉の嫁ぎ先でした。高瀬家は山村代官の家臣でした。昭和2年の火事で本宅自体は一旦焼失したようです。
これはご存じ、島崎藤村の「夜明け前」の書き出しです(写真⑥)。 さて、こういう賞状がありました。褒賞の対象は「奇應丸」、どうやら薬のようです。受け取ったのは高瀬兼喜、日付は昭和3年5月24日で、同年の名古屋博覧会で一等賞になったようですす。奇應丸とは今も売っているあお樋屋奇應丸のことでしょうか(写真⑦)。
小さな木札がありました。奇應丸の解説です。原料は麝香、人参、沈香、熊胆の4つ、これを粉にして更に米粉で固めて乾燥させ、その上に金粉をかけたものだそうです(写真⑧)。
ちなみに、奇應丸自体は1300年の歴史があるとされる薬です。どうも大正時代に文中にあった金粉を奇應丸の表面にかけることによって劣化を防ぐようになり、よく知られている樋屋奇応丸はこの処方をしたものを指すようになったそうです。
この関係で高瀬さんが一等賞になったのかもしれません。なお、現在売られている樋屋奇応丸は五黄も含んでいるようですが、五黄を抜いた糖衣錠もあるようです。
これは奇応丸の製造道具です。まずは薬研、臼、包丁です(写真⑨)。包丁は包み紙を裁断するのに使ったと思われます。
これは奇應丸を丸めて薬に仕上げる道具です(写真⑩)。
七福神の図画ありました。どうも山村代官の9代目が奇應丸の製造販売を手がけたようで、毎年正月に薬を作る工房にこの掛け軸を掲げて御神酒を供えたそうです(写真⑪)。
こうやって見ると、七福神は手習いの師匠、大物狙いの漁師、男根の化け物、太った飲んべえの生臭坊主、意味不明の二人組老人と暇そうな人たちの中に軍装の毘沙門天が混じっていて、どう見ても毘沙門天が浮いているという感じもします(写真⑫)。
さて、これが高瀬家が掲げていた奇應丸の看板です。文久2年(1862年)頃のものです(詩⑫の2)。
これは島崎藤村直筆の詩の掛け軸です。まずは「小諸なる古城のほとり」です(写真⑬⑭)。近代詩で一番有名な詩でしょう。細長いので上下半分ずつ写真にしています。
次は「千曲川旅情の歌」です(写真⑮⑯)。文豪の直筆の本物なんて滅多に見られません。
読めば読むほどいい詩だと感じます。藤村は小説なんか書かずにずっと詩を書いていて方がよかったのに思うこともありますが、そうも行かなかったのでしょう。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の旧中山道福島関所跡にいます。関所資料館を見学中です。
関所の中心部である上番所にやってきました(写真①)。
正面というか、庭の方から見たところです(写真②)。江戸時代の旅行者から大体こういうように見えたでしょう。両側の長押の上に槍の柄が見えます。下の方には矢も置かれていて権威を示しています。畳の敷き方も独特です。
こういう武器は恐らく一度も使われたことはないでしょう。備えはあるぞと見せることが大事です。それは現在の国際関係でも同じです。
これがその矢です(写真③)。
矢を立てている木製の枠は「櫃衝」と言うようです(写真③の2)。さて、何と読むのでしょう。「ひつたて」でしょうか。
火縄銃もありました。果たして本当に撃てたかどうかは疑問です。常に手入れしていないといけないからです(写真⑤)。猟師でもなければもう鉄砲など鬱必要もない時代でしたから。今でもそうですが、普通に自衛のための道具を備えるなら刺股が一番です。
文机と整理棚です(写真⑥)。実際に関所で使われたものかどうかは不明です。
これが正面ですが、質素な床になっていました。何やら大きな絵図がかかっていると思ったら、福島宿の見取り図でした。詳しく紹介しておきましょう(写真⑦)。
江戸時代中期頃の様子だそうです(写真⑧⑨)。関所は右のはずれに有り、ここを通ると福島宿に入ったようです。
橋を渡った木曽川の対岸には関所の管理者だった山村代官の屋敷がありました。これが往時の代官屋敷です(写真⑩)。
こういうのもありました。中山道の内、木曽地方を通る部分を木曽街道十一宿と呼んでいました。その観光絵図です。もちろん現代のものですが、往時の宿場の位置や当時を描いた浮世絵も出ています。
京都側から江戸側へと紹介しましょう。まずは、馬籠宿と妻籠宿です。ここは往時の雰囲気を良く今に伝えています(写真⑪)。
絵が少し重複しますが、三留野宿、野尻宿、須原宿、上松宿、福島宿、宮ノ越宿と続きます。右端上には御嶽山の稜線も見えます(写真⑫)。
これも重複しますが、福島宿、宮ノ越宿、薮原宿、奈良井宿、贄川宿と続きます(写真⑬)。
さて、関所は女性の出入りに厳しかったということはよく知られています。その実際の様子が解説されています(写真⑭)。2時間かかったようです。今の国際便の入出国よりもはるかに難しかったと言う気がします。まだ日本国と言う概念が存在しなかったのでしょう。
おっと、ここには刀もありました(写真⑮)。関所の備品だったということなのでしょう。
木曽路を通った人の名は宿場に記録されていて今でも分かります。かなりの上流階層の人物が通っています(写真⑯)。文中、「簾中」は公家や大名の奥方、「女中」は公家や武家の殿中に勤務している女性です。
これで関所資料館の見学は終わりです。隣の高瀬家資料館に行きましょう。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の旧中山道福島関所跡にいます。関所資料館を見学中です。福島関所に関するQ&Aの続きです。
関所の代官には行政権はあっても司法権はなかったということです(写真①)。この協議は今で言えば法務大臣と愛知県知事に協議するようなもの、当時の通信手段を考慮すると大変な事態だったと思われます。その間に牢死したら塩漬けにして待つなど、誰もやりたくない迷惑な事態だったことでしょう。
関所の通行量です(写真②)。冬場は東海道の方が暖かいし、川止めもなかったので中山道の通行量が減ったのでしょう。通ったのは今で言う運送会社と郵便局の従業員、それに大名行列、これは事前に手形を出すなどして身元がしっかりしていました。
一般の旅行者が一番怪しかったでしょうが、伊勢参りなどは緩やかな扱いを受けたようです。さすがに歌川広重が東海道五十三次を描いた幕末の時代になると緩やかになっていたようです。
皇女和宮の降嫁の行列はここ福島宿に文久元年11月3日(現行歴1861年12月4日)到着、昼食休憩をしています。日本最大の結婚の行列で、江戸時代の最後を飾った国家的イベントでした。
中山道の各宿場もこれだけの規模の高貴な隊列を通したことはなく、天地をひっくり返したような騒動になったことでしょう。今も木曽街道各地の旧宿場でこの行列を再現した祭があるようです(写真③)。
福島関所の模型です(写真④)、左上が関所の建物、中央の川は木曽川、そのすぐ上のわずかな平地を現在の国道19号線が走っています。架かっている橋は恐らく大手橋でしょう。この南側に代官屋敷があったのです。
精巧な模型ですから詳しく紹介しましょう。江戸から歩いてくると東門に行き当たります(写真⑤)。歌川広重が描いた東海道五十三次福島宿はこの辺りの風景でしょう。
これが福島関所です(写真⑥)。まあ、通行量や業務量からするとこの程度の建物で間に合ったのでしょう。
今の町役場の方が余程立派だと思うかもしれませんが、現在の市町村は江戸時代に名主や寺がやっていたことをすべて役場が引き受け、その上に福祉、防災、土木と世の中の仕事全部をやっているのですから庁舎も大きくて当たり前と言えば当たり前です。立派である必要は必ずしもありませんが。
関所を無事通過した人は中山道を南下して京都を目指します(写真⑦⑧)。ここに泊まった人も多いことでしょう。 対岸には代官屋敷が有り、川沿いに民家もありました(写真⑨)。釣りをしている人がいますが、アユ、アマゴ、ウグイなどがたくさん釣れたことでしょう。多くは旅人の食事になったと思います。ウグイでも燻製にするとおいしいですね。
この繁栄も終わりが来ました。国道19号線が通り中央本線が走り出すと中山道は永遠に歴史の彼方に消えていきました。でも、その面影は今も随所で見ることができます。 さて、前回でも紹介しましたが、ここは座敷という名札がついた部屋です。要するに代官の執務室だったということです(写真⑩)
座敷の床に掛け軸があります(写真⑪⑫)。確か関所の東門の辺りにこういう石碑がありました。太平の世だからもう閉ざす必要もないとは先見の明を持った人物だから言えることでしょう。
凝り固まった当時の教条主義の朱子学者ではこうは言えません。今も共産主義者という時代遅れの教条主義者がいますが。
模造品と思われますが、こういう文机と火鉢で仕事をしていたのでしょう(写真⑬)。ヒトの先祖は寒い氷河時代を生き抜いていますから寒い分には生き抜くのは難しくありません。
代官の机から庭を見たところです(写真⑭)。この先を実際に旅人が通ったのです。和宮の一行もここを通ったのでしょうか。
関所のことですから道は一本しかなく、検問しないだけで通ったのは間違いないような気がするのですが見たわけではありません。今からわずか150年前の出来事でした。タイムマシンが欲しくなりましたね。テレビドラマでもいいから再現して欲しいです。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の旧中山道福島関所跡にいます。関所資料館を見学中です。
右から道中煙硝入れ、加薬入れ、携帯用竿秤です(写真①)。鉄砲の火薬を実際に計量しながら使っていた時代の装備品です。銃は火縄銃だったでしょうか。
弾薬入れです(写真②)。鉛玉だったと思います。
大きさの異なる火縄銃です(写真③)。江戸末期になると火縄銃を使っていたのは猟師かやくざくらいのもので、幕府軍も薩長軍も西洋式の新型銃を使っていました。
もちろんそういう武器を大量に日本に売って儲けたのは西洋の先進国でした。今でもアメリカの銃器会社は絶大な力を持っています。
こういう小さい火縄銃もありました。え?、鞍馬天狗も使っていたって・・・、違います。鞍馬天狗が使ったのは西部劇に出てくるような当時の最新式の銃のはずですが、映画ではかなり怪しげな、つまり明治の中頃に作られた銃を使ったようです(写真④)。
弓です(写真⑤)。関所では権威を示すために一揃いの武器を備えていました。
福島関所の解説がありました(写真⑥)。文中にあるように箱根、新居と並ぶ重要な関所でした。
これが関所の座敷です(写真⑦)。旅行者の手形改めは実際にこう言うところで行われたのでしょう。
一番入り口に近い部屋から見学します(写真⑧)。後で分かることですが、この部屋が代官が勤務する部屋でした。格式が高いので床の間になっているのです。
関所に関するQ&Aがたくさんありました。こういうのを知っていると時代劇も見る角度が違ってきます。詳しく紹介しましょう。
まずは手形発行費用です(写真⑨)。この時代は正規の手数料と心付け、賄賂との区別がつきにくい時代でした。1両は現在の8万円から10万円に相当しますが、時代間の購買力平価のようなこと、現在払っている税金や保険料などを考えるともっと値打ちがあったはずです。 通行手形は誰が発行したかです。一般人は庄屋か寺でした(写真⑩)。江戸時代は今で言う究極の小さな政府であり、多くのことを民間に委託していたのです。今の役所は面倒見がよすぎる、、、そうは思いませんか。だから災害の時は自助、共助、公助と言っているのですが。何でも完でも役所に言っていくという風潮は地域社会を崩壊させます。まあ、崩壊しかかっているから役所に言っていくのかもしれませんが。
この解説を理解しておくと時代劇が良く分かるようになります。不定時法という概念をインターネットで検索するといいでしょう。日の出を午前6時、日の入りを午後6時としたのです。冬至の頃は夏至の頃に比べる4時間ほど昼の「時間そのもの」が長かったのです。生活時間としてはある意味で便利な時間でした(写真⑪)。秋の夜長をどうするかというのは不定時法の時代の話だったと思います。
関所の責任者の話です(写真⑫)。山村氏の立場は微妙ですね、幕府御家人、尾張藩士、世襲で民間委託を受ける武士の身分を持った代官職、インターネット情報でも確たるところは分かりませんでした。
勤務中の食事は今と大差ありません(写真⑬)。政府が高齢者を75歳以上にしようと言っていますが、年金支給年齢を改正しようなどとする他意がなければ間違いではありません。
ここに書かれているような漬物少々というのは明らかに粗食です。今のように豊かな食事ができるからこそ寿命も延びるのです。それに加えてテレビで大流行の特保だの健康食品も大いに結構、バカ高いこの種のものをお金持ちの老人がたくさん買って摂取して健康になり、健康保険を使わずに長生きするのは社会にとって一挙三得、とてもいいことです。
関所の役人の数です(写真⑭)。4大関所と言う割には小規模という感じがします。
関所破りの話です(写真⑮)。江戸時代前期はまだ幕府が安定せず戦国時代の気風が残っていたのでしょう。元禄時代を過ぎると人や物の移動が劇的に増え、関所は無用の長物、時代遅れの「経済の堰き止め所」という存在になっていきます。
これを読むと、それなりにご苦労なこともあったようです(写真⑯)。こういう話を聞くと百人一首のあの歌を思い出しますね。雄大な故事を踏まえ男女の妖艶な関係を歌い込んだ和歌の傑作中の傑作です。関所は24時間体制で守っていること、夜が明けないと開かないことも美しく読み込まれています。 夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも よに逢坂の 関は許さじ 清少納言
では次回でも続きを紹介します。
続く
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