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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の旧中山道福島関所跡にいます。
関所を復元した建物の内部に入りました。今は関所資料館になっています(写真①)。
弓張とあるのは弓張り提灯のことで、時代劇で夜間に「御用だ、御用だ」と言って追いかけるときに使う提灯を入れる箱です(写真②)。弓のような形をした取っ手で提灯を補強しているのでとても頑丈にできています。
この辺りが下番所だったようです(写真③)。展示されているのは古文書や関所の発掘資料です。
これが福島関所跡から出土した発掘品です。写っているのはすべて17世紀の美濃焼です。壊れていなければ重文級なのですが(写真④)。
中央は灰釉捏鉢(こねばち)です(写真⑤)。捏という漢字は現在では朝日新聞の慰安婦や南京大虐殺の捏造記事の影響で「でっち上げる」という意味でしか使われませんが、本来は「こねる」という意味があります。
これは左から鉄釉餌じょく、灰釉餌じょく、白釉餌じょくと並んでいます。「じょく」の漢字は不明です。餌じょくというのは小鳥などに餌を与えるときの入れ物のことです。江戸時代にこんなどうでもいいものまで美濃焼で作り、買う人もいたのです(写真⑥)。
この茶碗は太白手染め広東茶碗です(写真⑦)。19世紀の美濃焼ですが生活雑器だったのでしょう。今では民芸品と言います。
よく見かける寛永通宝です(写真⑧)。
御免荷物小割手形です(写真⑨)。これを読むと江戸時代の流通がどんなものだったか見当がつくでしょう。現在でも中国・北朝鮮を念頭に置いての偽物、まがい物の流通や日本人による産地偽装の規制にある程度は有効な手段かもしれません。
しかし、本当に我が国は隣人に恵まれませんね。文化程度は江戸時代並みの国ばかりですから。それどころか盗んだ仏像を自分の国のものだとする裁判所まであるような国まである始末、もはや異次元の存在と思った方がいいでしょう。
ご当地、福島関所の位置付けというか任務の解説です(写真⑩)。江戸時代は封建時代のことですから国内に関所がありました。東海道は今で言う国道1号線で、箱根と新居に関所が有り、中山道は言ってみれば国道2号線で碓井とここ福島に関所があったのです。地形的にも簡単には迂回できないところが関所の立地に向いていたのでしょう。 女性の移動は殊の外厳しかったようですが、近隣も移動できないようでは不便でたまりません。そこでこういう女日帰り手形なるものを発行したようです。軽トラで気楽に移動できる今の感覚からするとこれでも理解しにくい不便さでした(写真⑪)。
これは人足夜通し通行手形です(写真⑫)。人足には昼間の通行手形が渡されたのですが、これがないと夜間は通行できなかったのです。江戸時代のこの閉塞さが今も方言や文化、料理、言葉の違いになって残っています。
陣笠、加薬入れです(写真⑬)。陣笠は平時用のものですから紙でできた軽いものです。火薬入れは火縄銃と一緒に持ち歩いたのでしょう。
江戸時代の捕縛用の道具です。穴の空いた板は首かせ、その下は手錠です(写真⑭)。
時代劇では余り首かせを見たことはないような気がします。水滸伝では、犯罪人とされた108人の勇姿が流刑地に護送されるときに必ずはめられています。え、日本では今も使われているって?、それは何かのいかがわしい分野の映画ではありませんか。 ご存じ、十手です(写真⑮)。十手は今の警察手帳のような役割もあったのでむやみに振り回すものではなかったようです。正規のものは同心が持っていたのですが指揮棒に近く、銭形平次親分の十手は正規のものか私物の捕縛用武器か微妙なところです。現在の大相撲の行司の軍配と同じで十手についている房の色で持っている人の立場というか階級が認識できたようです。
この長くて丸いものは箙(えびら)です。矢を中に入れて背負う武具です(写真⑯)。
これを見たら矢の先端のとがった金属や石の部分、つまり鏃(やじり)をなぜ尻というか分かるでしょう。えびらに矢を収納したとき、上に出ている矢の羽の部分が頭、箙の底につく方がやじりだからです。 江戸時代の武器の展示は続きます。
続く
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第20回大旅行(2012年8月)
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の旧中山道福島関所跡にいます。
これは東門跡という碑です(写真①)。この辺りに大きな門があったのでしょう。
この石畳のところには番所があったようです。今で言う警備員詰め所のようなところです(写真②)。
関所水なるものがありました(写真③)。往時の生活用水です。中山道を行く人たちもこのおいしい水でのどを潤したに違いありません。
関所水付近から下を見たところです。福島関所が断崖絶壁の上に立てられていたことが分かります(写真④)。この石垣も往時のものかもしれません。
向こうに関所らしい建物と簡素な門があります(写真⑤)。往時と同じではないにしても雰囲気は似たようなものだったでしょう。
現在の門はこれです。中央に立っているのは「史跡 福島関所跡 文部省」とあります(写真⑥)。
この辺りは史跡公園として復元整備されたものです。往時の建物がそのまま残っているわけではないと思いますが、いわゆる模擬復元ではありません。これがその見取り図です(写真⑦)。
では先に進みましょう(写真⑧)。自家用車で来た場合、この右側の道を上がってくるのが一番近いと思います。
この左側が福島関所です(写真⑨)。復元されたものなので資料館という名がついています。ご承知のように江戸時代のまま残っている関所は浜名湖にある新居関所一カ所だけで、これは国指定特別史跡という格上の存在です。福島関所関所は時代劇のロケ地くらいなら勤まりそうな存在ということでしょう。
これが福島関所です(写真⑩)。
歌碑がありました。太田水穂という長野県塩尻市出身の歌人の詠んだ歌です。まあ、谷底というならもっと深いところはいくらでもありますが(写真⑪)。
山蒼く 暮れて夜霧に 灯をともす 木曽福島は 谷底の町
さて、これが福島関所です(写真⑫)。ここを守っていたのは木曽代官の山村氏でした。陣幕の家紋は丸に一文字、つまり山村氏の家紋です。
中に入りました(写真⑬)。上番所と呼ばれる部屋です。
上番所の隣の部屋です。名札は単に座敷となっています(写真⑭)。床間があるのでそれなりの格式のある部屋だと思います。
ここが資料館としての入り口です(写真⑮)。山村氏の家紋入りの提灯が吊られています。
ではかつての福島関所を復元し、今は資料館となっている建物の中を見学しましょう。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の福島小学校の隣にある代官屋敷にいます。
1039時、ここの見学が終わりました。車は感光駐車場に止めてあるので木曽川を南に渡ってそちらの方に向かいます。
今まで見たこともないような橋がありました。「木曽川 おほではし」という碑が埋められています(写真①)。後で分かったことですが、昭和11年に完成した世界で最初のコンクリートローゼ桁橋なのだそうです。日本中を旅行しましたが、こういう橋は初めて見ました。代官所からすぐのところにあるので「大手橋」と言うことのようです。
解説もありました(写真②)。
これは無料の上町駐車場です。上町交差点すぐ横にあります(写真③)。
大手橋から上町交差点を通ってそのまま南の方に上がっていくと少林山久昌禅院があります(写真④)。
山門では立派な仁王様がこちらを睨んでいます(写真⑤)。 そこから少し歩くと中央本線山平踏切です(写真⑥)。東京あたりに住んでいる人には信じられないでしょうが、中央本線のこの山間部には単線区間が何カ所もあります。この踏切付近は複線のようです。
折からお盆の終わり頃、お墓も彩られています(写真⑦)。
電車からだとこういう風景が見られるでしょう(写真⑧)。
さて、どこかで道を間違えたようです。歩いている内に中央線の線路の下をくぐることになりました(写真⑨)。
どうやら福島関所の東側、つまり江戸側に来たようです。向こうに冠木門のような門が見えます。ツアーバスで来ると大抵はこの右側の駐車場で降ります。自家用車は直進して坂を少し下ると信号機の横に先ほど紹介した駐車場があります。左の方に見える小道が福島関所に続く道です(写真⑩)。
中央の道をまっすぐ行くと関所です。江戸時代がいかに省エネ時代だったか分かります。幹線国道ながらこのくらいの広さで間に合ったのです(写真⑪)。
これは旧中山道福島関所跡です(写真⑫)。ここは東門で江戸から来るとここに着きます。
ご存じのように歌川広重が木曽街道六十九次福島宿という浮世絵を描いています。それがこれです(写真⑬)。もう少し先の東門のあたりだったかもしれません。一般の旅人にとって関所と渡河は難所でした。どういう気持ちでここを通ったのでしょう。
解説を紹介しておきましょう(写真⑭⑮)。関所の役人は先ほど見学してきた山村代官が務めていました。今で言う指定管理者のようなものですが当時のことなので世襲でした。
ここは空き地ですが、かつては馬でも止める場所だったかもしれません(写真⑯)。
ここにも「木曽福島関所跡」という碑がありました(写真⑰)。この碑文を読んでおきましょう。
では先に進みましょう。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の福島小学校の隣にある代官屋敷にいます。
代官の家臣の学者の書斎を移築した建物にいます。
比較的狭い部屋が2つあります(写真①)。奥が学者の部屋、隣は控えの部屋でしょうか。 これは往時の文机です(写真②)。
欄間もありました(写真③④)。
この書斎の名である「翠山楼」の扁額です(写真⑤)。
現代ではこれだけでは理解するのは困難なので解説もついています(写真⑥)。
商家などと違い、凛とした厳しさが漂います(写真⑦)。
この角度で見るとよく分かるでしょう。ここは茶室兼用だったようです。中央付近に小さな炉が掘られています(写真⑧)。
正面に床があります。簡素な造りです(写真⑨)。
床には書の掛け軸がありました(写真⑩)。
これがその書です(写真⑪)。全く読めないわけではありませんが正確な意味は解説が無いと分かりません。
ありがたいことに現代文訳がありました(写真⑫)。
こういうところに来たら必ず釘隠しを見ておきましょう。大体その部屋の格式が分かります(写真⑬)。
床の方から庭を見たところです(写真⑭)。
なかなかすばらしい庭です(写真⑮)。
こういういささか古びた解説がありました。往時はもっとたくさんの庭園があったようです。この庭は近くにそびえる駒が岳を借景とした静寂幽遠の庭園だったようです(写真⑯)。
さて、1037時になりました。木曽代官屋敷の見学は終わりです。徒歩でここを出発、木曽川を渡り、南岸にある福島関所を目指します。
続く
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2012年8月16日(木)
今、長野県木曽町の福島小学校の隣にある代官屋敷にいます。
看雨山房の奥にある部屋です(写真①)。元々は寝室か次の間だったかもしれませんが、今は展示室のようになっています。
「清音楼」と書かれていると思われる扁額です(写真②)。由緒は不明です。
ひな人形がありました。ご当地の代官だった山村氏に伝わる江戸時代作のものです。
これは内裏雛です。奥の武士は誰でしょうか。精緻でとても美しいです(写真③)。 詳しく紹介しましょう。
詳細不明の武士です。手前にはお膳一式があります。これも蒔絵仕上げで美しいものです(写真④)。 男雛です(写真⑤)。衣装がすばらしいです。少し地味という感じもしますが。
ひな人形と言えば女性の方が主役です。豪華な頭部の飾りです(写真⑥)。
この武士は誰でしょうか(写真⑦)。警護の武者というところでしょうか。
中央にいるのは巴御前、つまりご当地出身の木曽義仲の妾です。妾と言っても義仲に従軍して男勝りの活躍をした女傑です(写真⑧)。これは巴御前の奮戦の様子なのでしょう。左側にはなぜか寿老人が知らぬ顔で立っています。
こういう山水の掛け軸がありました(写真⑨)。
写真⑨の下半分です(写真⑩)。この二人がいるかいないかで絵の雰囲気が全く違い物になります。それにしても危なっかしい橋です。
この後は少し省略します。
こういうところにやってきました。「翠山楼」と言う扁額が見えます(写真⑪)。
翠山楼の解説です(写真⑫)。山村代官の家臣の息子で学者だった人物の書斎だったようです。
上に上がりました。廊下の端に小粋な衝立があります(写真⑬)。
これが書斎です(写真⑭)。
外を見たところです(写真⑮)。庭の突き当たりという感じです。この書斎自体は別の場所にあったものを移築したので最初からこういう雰囲気だったわけではありません。
そうはいうものの、大体往時もこういう感じだったことでしょう。今の時代劇に出てくる映像は大半が偽物ですから、これを敢えて偽物という必要もないでしょう。
この書斎、往時の雰囲気をよく留めています。次回で詳しく紹介しましょう。 続く
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