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2013年5月1日(水)
今、長野県安曇野市の堀金歴史民俗資料館にいます。道の駅アルプス安曇野ほりがねの里のすぐ隣にあります。
往時のおひな様の展示の続きです。
この毛の濃い男は誰だと思ったら神武天皇でした(写真①)。 武蔵坊弁慶も人気のある内の一人です(写真②)。
先にこの人形を紹介しておきましょう(写真③)。神功皇后と武内宿禰です。この二人、今はもう忘れられていますが戦前は大変な人気だったようです。
この二人はどこに行っても人気者ですね(写真④)。
さて、ここからが押し絵雛です(写真⑤)。錦のひな人形や泥人形は全国にありますが、紙で作った押し絵雛は御当地、旧松本藩の妻女達が伝えた独特のものです。
説明が無いので難しいところですが、これも神功皇后と武内宿禰だと思われます。武内宿禰が抱いているのは後の応神天皇と思われます(写真⑥)。
こういう端正な顔つきの押し絵雛が多いです(写真⑦)。これは菅原道真です。そう言われないと分からないかもしれません。
子供を抱いている普通の女に見えますが、何か有名な話の場面だったと思います(写真⑧)。
これは有名、えびす様と大黒様です(写真⑨)。
これも誰だかわかりません(写真⑩)。
さて、これは七夕人形です(写真⑪)。かなり凝った造りです。
御殿がついたひな人形です(写真⑫)。
幟でしょうか(写真⑬)。
幟のてっぺんに付ける風車です(写真⑭)。「がらんこ」といいます。そう言えば回るときにガラガラという音がしましたね。
掛け軸ですが、5月の端午の節句の飾りだと思います(写真⑮⑯)。
これも端午の節句の飾りですが、家の中で飾るものです(写真⑰)。
残念ながらひな祭りに比べると端午の節句の祭は都市部では廃りつつあります。田舎の方では幟を立てたり鯉幟が泳いだりとにぎやかなところもあります。是非頑張って続けてください。男の子の成長も盛大に祝いたいですから。
では次の展示に行きましょう。
続く
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第21回大旅行(2013年4月)
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2013年5月1日(水)
今、長野県安曇野市の堀金歴史民俗資料館にいます。道の駅アルプス安曇野ほりがねの里のすぐ隣にあります。
この先しばらくは明治になって描かれた錦絵です。明治と言ってもしばらくは江戸時代と変わらないような絵が売られていました。さすがに浮世絵とはいわず錦絵と呼んだようです。まあ、江戸時代でも多色摺りの版画のことを錦絵と呼んだのでどうこうはないのですが。
まずはこれです(写真①)。八幡太郎義家です。源義家で、頼朝や義経の先祖です。戦前は教科書の後三年の役の「雁行の乱れ」という話で有名になり、知らない人はいないという感じでしたが今はどうでしょうか。 仮名手本忠臣蔵六段目の一場面です(写真②)。ご承知のようにお軽勘平の話なのですが、
寡聞にしてこれがどういう場面なのか分かりません。 これは西南の役で力尽きようとしている西郷隆盛です(写真③)。
これは沢村田之助という歌舞伎役者です(写真④)。中村とか市川とかいう姓の歌舞伎役者は有名ですが、沢村というのは知りませんでした。描かれているのは3代目でしょうか。現在は6代目が現役で、何と、人間国宝でした。
こういうのもありました(写真⑤)。
大正9年末に発行された幼年男子の友の付録の「初夢双六」です(写真⑥)。
では次の展示に行きましょう。往時のラジオです(写真⑦)。当時は最新鋭の電気製品で高価なものでした。
蓄音機とラジオです(写真⑧)。 大正時代のアコーディオンです(写真⑨)。
エンフォニコンという銘のあるハーモニカです(写真⑩)。
紙芝居が入っている箱です(写真⑪)。紙芝居の元祖は明治に始まりましたが、現在のような格好になったのは昭和になってからのようです。
御当地の伝統品、押し絵雛が登場しました。江戸時代の松本藩で武家の妻女等により作られていたものです(写真⑫)。
これがその押し絵雛です(写真⑬)。よく見ると上二段は錦の衣を着た人形でした。
これはよく見られる内裏雛です(写真⑭)。男雛が向かって左に来るのは昭和以降の並べ方です。昭和天皇即位式の際に西洋の王室の慣例にならってこのように列んだため、雛の並べ方もそれにならったのです。
古来、日本では左の方が右よりも格上とされ、向かって右(つまり雛からすると左側)に男雛が座っていたのです。
これも内裏雛です(写真⑮⑯)。明治から大正にかけての内裏雛は豪勢で精緻な飾りを付けたものが多いです。
次回で押し絵雛を紹介しましょう。
続く
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2013年5月1日(水)
今、長野県安曇野市の堀金歴史民俗資料館にいます。道の駅アルプス安曇野ほりがねの里のすぐ隣にあります。
さて、前回から何度も登場している臥雲辰致(がうんたっち)の写真です(写真①)。
臥雲辰致も今は忘れられた存在ですが、1842年に御当地に生まれ、1900年に死去しています。 家業が足袋底織業だったので少年の頃から紡績機の改良を考えていたそうです。 珍しい名前ですが一時期僧侶だったことに由来します。1873年に臥雲式紡織機(ガラ紡機)を発明しました。「ガラ」は作動時に「ガラガラ」という騒音を出すことに由来します。ガラ紡機で作る綿糸は独特の特性があり、 現在でも愛知県あたりで使われているようです。 これがガラ紡機の構造図です(写真②)。中央にある綿筒というものに原綿を入れ回転させながら上下に動かします。その際に上に糸を引っ張り出すということのようです。
臥雲辰致の協力者2人です。まずは甲村瀧三郎です(写真③)。動力は水車を使いました。
次は鈴木六三郎です(写真④)。川に船を浮かべ、舷側に付けた水車で動力を得てガラ紡機を動かしたそうです。これを船紡績と言ったようです。 ガラ紡機の話はこれで終わりです。日本の近代的製糸の一幕を飾りましたが、豊田佐吉のようにはならなかったようです。
さて、これは地元で出土した縄文土器です(写真⑤)。ここは歴史民俗資料館なのでこういう歴史も扱いますが、当ブログの守備範囲ではありませんので省略します。
次はこういう展示になりました(写真⑥)。生活用品がたくさん列んでいます。例によって詳しく紹介しましょう。
これは「置き床」といいます。寡聞にして移動式の床を見るのは初めてです(写真⑦)。左は花器、右は火鉢です。
スキーと弓があります(写真⑧)。
手前にあるのは虫かご、中央は羽子板と下駄スケートです(写真⑨)。
美しい花瓶です(写真⑩)。
花瓶に水を入れる水差しです(写真⑪)。木製で漆塗りです。
糸鞠、羽子板です(写真⑫)。
明治末から大正時代にかけて使われたカルタです(写真⑬)。
ぶっつけ(ばっちん)という名札が付いてますが、こう呼ぶのはこの辺だけだとも書かれていました。一般にはメンコというでしょう(写真⑭)。
発行年は不明ですが、今も知られているような有名なおとぎ話を題材にした道中双六です(写真⑮)。大抵は雑誌の正月号の付録でした。
続く
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2013年5月1日(水)
今、長野県安曇野市の堀金歴史民俗資料館にいます。道の駅アルプス安曇野ほりがねの里のすぐ隣にあります。
前回で養蚕の展示を紹介しましたが、繭ができると次は製糸になります(写真①)。
これは「ふみどり」という名が付いています「踏み取り」と書くと思われます。下の台に鍋をかけて繭を煮ます。糸口を見つけたら何本もより合わせて上の糸巻きに巻き取ります。これは見かけが変わっただけであの富岡製糸場で行われた製糸と原理的には同じやり方です(写真②)。
もっと前の時代から行われていたのがこの糸車を使う方法です(写真③)。
これは珍しいものです。「まわたがけ」という名札が付いています。「真綿懸け」と書くでしょうか。真綿はご承知のように蚕の繭から作られます(写真④⑤)。
糸紡ぎ機です(写真⑥)。
これは珍しいです。糸撚り機です(写真⑦)。一旦手で製糸したものに撚りを掛けて更に強くする道具です。
「はたへり」というのも珍しいものです(写真⑧⑨)。
最後の方に綿が登場しました(写真⑩)。
こういうところに来ました(写真⑪)。
例によってあの発明家の臥雲辰致(がうんたっち)の息子が発明した脱穀機だそうですが、さて、よく見かけるものとどこが違うかは定かでありません(写真⑫⑬)。
撚り糸機は見たことがあるでしょう(写真⑭⑮⑯)。ここでいうガラ紡機は1876年に臥雲辰致が発明したものです。
今でも名古屋市にあるトヨタ産業技術記念館で本物が作動する様子を見ることができるそうです。臥雲辰致とガラ紡機は次回で紹介します。
続く
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2013年5月1日(水)
今、長野県安曇野市の堀金歴史民俗資料館にいます。道の駅アルプス安曇野ほりがねの里のすぐ隣にあります。
篭と袋です(写真①)。養蚕用だと思われます。
左は魚籠のような格好をしていますが、桑摘み篭です(写真②)。
桑切り用のまな板、包丁、押し切りです(写真③)。
少量なら包丁とまな板でも間に合いますが、大量に蚕を飼うとなるとこういう桑切機も必要になりました(写真④)。
これも桑切機ですが、臥雲式桑切機という名が付いています(写真⑤⑥)。臥雲辰致の子供が発明したものです。
これは養蚕道具で、砂飼育種蚕箱といいます(写真⑦)。実家が養蚕をしていたので私が幼い頃、こういうものを見たような気がします。
右の黒いのは蚕網です。これも先ほどの桑切機で登場した臥雲辰致がこの蚕網を織る機械を発明したものだそうです。
蚕は生き物ですから排泄物や食べ残しが生じます。最初にこの網を敷いて蚕を飼い、適当な時期に網を持ちあげると蚕だけを持ちあげることができ、清掃などの省力化に貢献しました(写真⑧)。
今は桑の木も見かけなくなりました。注意すれば野生化した桑を見ることができるかもしれません。桑の押し葉です(写真⑨)。
蚕を飼うには一定の温度を確保する必要があります。これは蚕室の暖房具です(写真⑩)。まだ、人用の暖房具は囲炉裏か火鉢だった頃、こういうものはもう普及していました。
蚕棚です(写真⑪)。こういうものが家の中にたくさん列ぶ家では、夜になると「ざわざわ〜〜」という蚕が桑を食べる音が響き渡ったものです。
蚕の神様もおられました(写真⑫)。日本の養蚕が衰退したことをさぞかし嘆いておられると思いますが、蚕が作った生糸は天然自然のもの、合成樹脂よりも優れた特性があり、いろいろな分野で将来性があります。
これは大正時代の繭の標本です(写真⑬)。一口に蚕といっても品種があり、その品種がどういう繭を作るかという標本です。
まぶし織機がありました(写真⑭)。
これはよく見かける毛羽取り機です(写真⑮⑯)。繭の表面を磨きます。
こういうものを見たことがあるでしょう。繭の乾燥機です(写真⑰⑱)。養蚕は年に二回できるのが精一杯、製糸は一年中行われます。そこで繭を長く貯蔵できるようにするのがこの乾燥機です。
こうして繭ができました。ここから生糸を作る製糸工程です。次回で紹介しましょう。
続く
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