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2013年5月2日(木)
今、長野県千曲市の稲荷山宿・蔵し館にいます。場所は千曲川に架かる国道403号線千曲橋西詰の北西約800メートルのところです。この辺りは江戸時代は善光寺街道の稲荷山宿があったところです。
機織り機がありました(写真①)。
糸車と糸枠です(写真②)。
機織りの様子です(写真③)。機織りは緻密で根気が必要な作業です。最初に機織り機に経糸を張るのも大変な作業でした。
糸繰りのようです。糸車をどうやって使ったかよく分かります(写真④)。繭や棉の花から繊維を何本か引出し、それに撚りをかけて糸にするのが紡ぐという作業です。
背負子とねずん棒です(写真⑤⑥)。先端がY字型をしている棒がねずん棒で、これを背負子にあてがって背負ったまま休憩したのです。これは意外に危険で、斜面などでバランスを崩すとこのねずん棒で背骨を損傷する恐れがありました。
笠と蓑です(写真⑦)。
ワラジ、丸いのは馬のワラジでしょうか、右の長いのは蚊遣り火だと思います(写真⑧)。
蓄音機です。前に付いているボタンはジュークボックス仕様だと思われますが、見たところではレコード盤を交換できるような装置は付いていません(写真⑨)。
商家の暮らしという解説がありました(写真⑩)。商家でも大正時代までは米食とはいかなかったようです。まあ、色々混ぜた方が栄養豊富でいいのですが、おいしさという点では劣ります。
ザルやカゴのの解説も珍しいですから紹介しておきましょう(写真⑪)。
トウジカゴです(写真⑫⑬)。
蝿帳です(写真⑭⑮)。解説の通り、今では家の中では使いませんが、戸外で何か干物でも作るときは便利かもしれません。蝿が居なくなったといっても、見かけないだけでやはりいるのです。鶏糞のようなものでも口を開けたままにしておくとウジがわくことがあります。
続く
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第21回大旅行(2013年4月)
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2013年5月2日(木)
今、長野県千曲市の稲荷山宿・蔵し館にいます。場所は千曲川に架かる国道403号線千曲橋西詰の北西約800メートルのところです。この辺りは江戸時代は善光寺街道の稲荷山宿があったところです。
これはどうも医療用の蒸留水のようです(写真①)。名札は浄溜水となっています。
携帯用のレントゲン撮影機なんて存在したのでしょうか(写真②)。
酸素吸入器です(写真③)。
これは手回し式ミシンです(写真④)。
鏝(こて)、火のしの解説です(写真⑤)。今、呉服店は存亡の危機にあるでしょう。正月でも着物を着ている人はテレビの中でしか見なくなりました。
火のしとこては江戸時代から同時期に使われるようになりました。構造が違うので使い勝手も違ったからです。さらに、日本産の炭がとても良質で、こてと相性がよかったのです。
火のしの方は途中で炭火アイロンに代わりましたがこては昭和30年代まで使われ、その後電気式こてに代わって今も現役です。
これは火のしと炭火アイロンです(写真⑥)。炭火アイロンは子供のいいオモチャになりました。コードは付いていないし蒸気船にそっくりだからです。
こてです。電気ごてもありました(写真⑦)。軽量でで小さく、細かいところを仕上げるのに便利だったと思われます。
団扇は長いこと販促用品でした(写真⑧)。エアコンが普及し、七輪もかまども普通には使われなくなると団扇の出番も少なくなりました。扇は携帯用なので今もよく使われます。夏は放せないという人もいるでしょう。
繊維商の解説です(写真⑨)。
養蚕と太物の解説です(写真⑩)。昔の広告などでは太物という言葉が普通に出てきますが、今はほぼ死語になりました。
綿糸や麻糸を太物と言います。蚕の繭から作ったものは生糸で、絹織物が往時の呉服商の本義だったので太物という言葉が生まれたのです。
販促用の団扇です(写真⑪)。これは裏側で商店の名が書かれています。表側は人物画や風景画が描かれるのが一般的でした。これの倍ほどの長さの団扇で表に墨で達磨さんの絵が描かれたものは特に重宝しました。
絹糸です(写真⑫)。絹糸は今、バイオ素材としても注目されています。タンパク質でできているため生糸で作った血管を体の中の血管につなぐと時間が経過する内に同化するというのです。
帳場台です(写真⑬)。
火鉢です(写真⑭)。しっかり宣伝していますね。
繭枡がありました(写真⑮)。枡か天秤を使ったとありますから、容積と重量と両方の単位で取引していたのでしょう。
これが2斗5升枡です(写真⑯)。米と違って軽いからこんな大きなものでも運べました。
これは2斗枡と1斗枡です。一斗枡がかなり小さく感じますが目の錯覚なのでしょう(写真⑰)。
続く
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2013年5月2日(木)
今、長野県千曲市の稲荷山宿・蔵し館にいます。場所は千曲川に架かる国道403号線千曲橋西詰の北西約800メートルのところです。この辺りは江戸時代は善光寺街道の稲荷山宿があったところです。
こういう展示がありました。ドライフラワーの花籠といったらいいでしょうか(写真①)。
横にあったのは唐箕です。上に丸いフルイが乗っています(写真②)。よく見ると普通の米麦用ではなさそうです。
これを見て分かりました。明治38年製で茶を選別する専用の唐箕だったようです(写真③)。茶選別用の唐箕は初めて見ました。
これは水漬き台です(写真④⑤)。川の氾濫などによる水害はいまも頻繁に起きますが、往時も同じでした。度々起きる洪水から大切な商品や家財をこの上に避難させて守ったのです。
さて、二階に上がる階段がありました。千曲川の水害地隊となると二階があることはとても大切です。どんなところか見に行きましょう(写真⑥)。ただし、写真の撮り方が悪くどこまでが二階の展示か分からなくなりました。
これは明治中頃の稲荷山宿の見取り図です。往時の街道でよく見かける短冊形の敷地です(写真⑦⑧)。
解説もありました。さすがに明治も20年になると見かけは江戸時代と同じでも業種はかなり変化しています。人馬も今で言う運送業者のものばかり、公家だの武家だのが姿を消し商売の町になったことが分かります。
こういう解説がありました(写真⑨)。御当地では明治の初め、杏仁という去痰鎮咳の妙薬を産していました。この当時、薬と言えば漢方で、原料となる草花は農山村で生産されたのです。
これは五香湯の版木です(写真⑩)。「官許 稲荷山極楽寺」などという字が読み取れます。
五香湯の解説です(写真⑪)。製薬の基本である日本薬局方(ほう)が制定されたのは1886年ですが、この解説のような寺社は例外というのはいつまで続いたのでしょうか。
この刻み臼という道具で薬草を処理し、右手にある生薬の粗ふるいにかけたようです(写真⑫)。
百味箪笥です(写真⑬)。多数の薬種を入れておく箪笥です。いまでもファイリングシステムとして使えそうです。
薬研です(写真⑭)。
箱篩(ふるい)というのは初めて見ました(写真⑮⑯)。
続く
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2013年5月2日(木)
今、長野県千曲市の稲荷山宿・蔵し館にいます。場所は千曲川に架かる国道403号線千曲橋西詰の北西約800メートルのところです。この辺りは江戸時代は善光寺街道の稲荷山宿があったところです。
販促方法が充実した背景には印刷技術の進歩があります、明治の初めはまだ江戸時代と同じく木版印刷で浮世絵同様の方式で作っていました(写真①)。 その後は西洋の印刷技術が怒濤のように入っています。
これは木版画の版木です(写真②)。
御当地では江戸時代、棉の生産が広く行われていましたが、明治になると棉の畑は桑の畑に代わりました(写真③)。養蚕というか生糸の生産がが大々的に始まったのです。
往時の写真です。残念ながら撮影した日は不明です(写真④⑤⑥)。
写真⑦の出征兵士を送るのが盛大に行われるようになったのは昭和12年の日中戦争勃発以降だと思われます。それから8年間戦い抜かないといけませんでした。当然男での少なくなる家が出ますから勤労奉仕で助け合ったのです(写真⑧)。
大正時代の御当地、稲荷山です(写真⑨)。下の方に見える鉄道は現在の篠ノ井線と思われます。
昭和30年代の旧稲荷山小学校の校舎です(写真⑩)。
昭和16年当時の稲荷山町中町通りの様子です(写真⑪⑫)。当時の様子の解説もありました。
稲荷山の繊維工業の話です(写真⑬)。まずは解説です。御当地の繊維業界も世界を巻き込んだ市場相場の影響を受けたようです。メリヤスは編み物の一種ですが、日本では織物が中心で編み物が日本に入ったのは17世紀になってからです。
昭和10年当時の紡績工場です(写真⑭)。
写真⑬の下半分に出ていた購販連の指定工場です。昭和16年頃の写真です(写真⑮)。
では次に行きましょう。
続く
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2013年5月2日(木)
今、長野県千曲市の稲荷山宿・蔵し館にいます。場所は千曲川に架かる国道403号線千曲橋西詰の北西約800メートルのところです。この辺りは江戸時代は善光寺街道の稲荷山宿があったところです。
蔵がありました。今は資料館になっています。どんなお宝があるでしょうか。中に入りました(写真①)。
別の解説がありました(写真②)。御当地の稲荷山が最盛期を迎えたのは明治中期から末期に掛けてのことでした。
「殷賑を極めた」という表現はもう死語になりましたが、殷賑というのは「活気があってにぎやかなこと」という意味です。
その後少し離れたところに鉄道が引かれ、御当地は段々と物流の拠点から外れていき、現在の静かな町になっています。
こんなにぎやかな時代もありました(写真③④)。
さて、展示が変わりました。往時の看板です(写真⑤)。
この看板を解き明かすのはかなり難しそうです(写真⑥)。記事にするに当たってはいろいろと調べましたが要するに分かりません。
この看板、漢字以外の字はありませんが単なる日本なので字面を追っていけば意味が分かります(写真⑦)。
残念ながら字が読めず、これが何を意味しているか分かりません(写真⑧)。
タバコ小売店の看板です(写真⑨)。
これもタバコ製造会社の広告です(写真⑩)。
中央の看板の内、左端はお茶だろう思いますが、後は不明です(写真⑪)。
これは桑の葉を摘むときに使う桑摘み爪の引き札です(写真⑫)。
これはタバコの引き札です。米国からの輸入のようです(写真⑬)。輸入タバコの多くは辛いかまずいかで日本人の口には合わなかったと思いますが、これはどうだったでしょう。
胃薬の引き札です。「山田安民」という字が見えますが、現在のロート製薬の創始者です。もしかしたらこの薬、現在のパンシロンの前身だったかもしれません(写真⑭)。
これはすべて紙巻き煙草の看板です(写真⑮)。
看板などの解説がありました(写真⑯)。暖簾は現在でも店の有力な顔です。
広告の話は続きます。
続く
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