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2013年5月2日(木)
今、長野県佐久市の望月歴史民俗資料館にいます。場所は佐久市望月支所のすぐ北側です。
角樽です。前回紹介したものは朱塗りの美しいものでしたがこれは白木の角樽です。酒としてはこの方が酒に木の香りが移ってうまいかもしれません(写真①)。
行火です(写真②)。寝るときにこの中に炭火を入れて布団の中に入れたのですが、今思えば火事かガス中毒の危険と隣り合わせでした。
こういう図解がありました(写真③④)。名前を全部言うのは意外に難しいです。
往時の生活の様子です(写真⑤)。
これは見事な絵です。実際にはこうはならないのですが、往時の台所の主要な装備品が勢揃いしています(写真⑥)。
いささか凝りすぎた展示かもしれません。石油ランプ、算盤、バチ、キセルとタバコ入れ、バリカン、秤、右端の細長いものは正体不明です(写真⑦)。
こういう履き物は今もありますが、どこでも見かけるというわけではありません(写真⑧)。雪駄といったらいいでしょうか。雪駄(せった)とは底に防水加工をした草履(ぞうり)です。
下駄です(写真⑨)。下駄を履く女性の姿も見かけなくなりました。うっかり履くと100メートルほど進んだところで足指の股ずれを起こしたり、足の裏が痛くなって動けなくなるかもしれません。
上の下駄は雨天時用です(写真⑩)。
火のしです。(写真⑪)。江戸時代の中頃に中国から入って来たものです。使い勝手がよかったようで、明治の頃に西洋から炭火アイロンがはいっていきた後も昭和30年代まで併行して使われたようです。
鏡台がありました(写真⑫)。
七輪の上に鉄瓶が乗っています(写真⑬)。お茶専用でしょうか。
煙草盆です(写真⑭⑮)。
商家でよく使われた長火鉢です(写真⑯)。冬の夜、こういうところで一杯やったらおいしそうです。
続く
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第21回大旅行(2013年4月)
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2013年5月2日(木)
今、長野県佐久市の望月歴史民俗資料館にいます。場所は佐久市望月支所のすぐ北側です。
江戸時代の髪飾りの話です(写真①)。これを見ても笄(こうがい)と簪(かんざし)の区別は意外に難しいです。
笄は元来は髪を掻き上げて(髪掻き→こうがい)根元に挿すものでした。江戸時代には笄も髪飾りになり、簪と区別が付きにくくなりました。
江戸時代では先端に耳かきの付いたものを簪、付いていないものを笄と呼んだようですから実質的には同じような髪飾りになっています。
これは簪です(写真②)。
櫛です(写真③)。
これが笄です(写真④)。
さて、こういう展示になりました(写真⑤)。例によって詳しく紹介しましょう。
まずは解説です(写真⑤の2)。
臼と杵です(写真⑥)。
土摺り臼です(写真⑦)。これは籾摺り器です。
高いところにあるので何か分かりませんでしたが、上は火箸、下は火吹き竹のようです(写真⑧)。
上は水嚢(すいのう)、したはザルです(写真⑨)。水を切るという点では似たところがあります。今も同型のものが新品で売られています。
こね鉢です(写真⑩)。こね鉢ももうほとんど見かけなくなりました。
浅い底の桶に取っ手が付いた容器です(写真⑪)。寿司の出前でもしたのでしょうか。それとも花見の時などに料理を持ち歩く外居の一種でしょうか。
楕円形の取っ手付き桶です(写真⑫)。岡持の一種だと思われます。
お櫃です(写真⑬)。
角樽です(写真⑭)。見ての通り、祝い事の席に酒を持っていくときに使いました。
羽釜と釜敷きです(写真⑮)。釜で炊いたご飯はお櫃に移すことが多く、こういう釜敷きを見るのは珍しいです。 徳利です(写真⑯)。
続く
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2013年5月2日(木)
今、長野県佐久市の望月歴史民俗資料館にいます。場所は佐久市望月支所のすぐ北側です。
展示が変わり機織り機が登場しました(写真①)。
これは駕籠です(写真②)。江戸時代は身分制の時代です。駕籠も身分によって使えるものが決まっていました。
囲炉裏の展示になりました(写真③)。例によって詳しく紹介しましょう。
少し小さめの囲炉裏です。自在鉤は竹の鞘と魚が付いた質素なものです(写真④)。
箱膳がありました(写真⑤)。囲炉裏の周囲に座り、箱膳を置いて食事をしていたのです。食器は一人分ずつ箱の中に入っています。
食事が終わると湯茶で汚れを洗っただけでしまいこみ、次回の食事でまた使っていました。台所の設備が貧弱で主婦もいろいろと忙しかった頃のものです。田舎では昭和30年代まで使われました。
つづら、整理箪笥、エジコです(写真⑥)。
箪笥と行李です(写真⑦)。
いかにも頑丈そうな箪笥です(写真⑧)。
長持ち、銭箱、上にはしゃれた行灯があります(写真⑨)。
さて、展示室の様子です(写真⑩)。既に紹介したものもあります。まだのものを紹介しましょう。
寛永通宝などの古銭です(写真⑪)。穴が開いているのは紐でくくるのに便利だったからでしょう。
寛永通宝にも1文銭と4文銭があったようです(写真⑪の2)。4文とは中途半端ですが、銭4000文が1両だったから使い勝手がよかったのかもしれません。
算盤です。上は5玉が2個、1玉が5個あります。この形の算盤は中国では紀元前に存在し、日本に伝わったのは15世紀でした。5×2=10、1×5=5で、要するに16進法に対応した算盤でした。
下の算盤は5玉が1個、1玉が5個で、日本伝来の後すぐにこのように改良されたようです。これは10進法なのですが、1玉の5つ目は算盤をはじくときの置き方に関係したようです。
現在の4つ玉に統一されたのは昭和10年でした。学校教育で算盤を正規に教え始めた年でした。現在は「デジタル計算機」の代表として有名です(写真⑫)。
重箱です(写真⑬)。生活様式も代わり一般家庭では重箱はほぼ押入に入ったままです。
湯桶と蓋付き椀です(写真⑭)。
椀と膳です(写真⑮)。料理旅館にでも行かない限りこの雰囲気は味わえないと思われます。まあ、卓一杯並べた料理に慣れると、ご飯、煮物、汁物、香の物といった素朴な方が体によくて安心するという気もします。テレビの大食い番組は実に野蛮で不愉快です。
1855年に起こった安政の大地震で御当地の小諸藩江戸屋敷が被災したため、50両用立てたところ、藩から拝領した盃だと言うことです(写真⑯)。
これは明治2年に小諸藩に登城して拝領したものだそうです(写真⑰)。明治2年といえば6月に版籍奉還が行われています。廃藩置県は明治4年なので幕府はなくなってもまだ藩は存続していたのです。
続く
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2013年5月2日(木)
今、長野県佐久市の望月歴史民俗資料館にいます。場所は佐久市望月支所のすぐ北側です。
長火鉢です(写真①)。
慶応元年の御用お先触留帳です(写真②)。慶応4年が明治元年になります。
中山道・甲州道道標です(写真③④)。正徳(しょうとく)6年(1716年)の日付があるそうです。
ロウソク立てです(写真⑤)。
これは提灯箱です(写真⑥)。
こういう展示がありました(写真⑦)。十手、六尺棒、袖がらみとなれば警察、警備ということになります。
宿場の警備の解説です(写真⑧)。
今も毎年のように洪水の被害が出ますが江戸時代も同じでした。1742年に御当地で洪水が起き、川の右岸の町並みが全滅したようです。復興では中山道を付け替え、町も全体で引っ越して現在まで続く町並みになったようです(写真⑨)。
江戸時代に多かったのが火事です(写真⑩)。明治以降も各地で街全体を焼くような大規模火災が起きていますが、江戸時代はもっと頻繁に起きていました。
囲炉裏やロウソクを使い、家は木と草と紙、消防力は破壊鎮火だけという時代でしたから無理もありません。御当地で水害から20年後に大火があったようです。このとき再建されたのが現在まで続く眞山家です。
これが眞山家住宅です(写真⑪⑫)。
眞山家の間取り図です(写真⑬)。典型的な街道筋の町屋です。
御当地にあった大応院の話です(写真⑭)。修験道の寺院でした。
修験道は我が国の山岳土着信仰に仏教、特に密教が融合した宗派ですが、明治に入って迷信だと言うことで禁止令が出されました。
もちろん、日本人の固有の宗教観に基づく信仰ですから滅びることはありませんでした。
甲賀三郎です(写真⑮)。詳しくはインターネット情報を参照してください。御当地の神様です。
これは大応院にあった観音像と思われます(写真⑯)。
不動明王と飯縄権現です(写真⑰)。不動明王は有名ですが。飯縄権現も修験道の神様です。
修験道の行者が着た着物です(写真⑱)。
修験道はある意味で迷信ですが、その基準で行くと世界中の宗教はすべて迷信になります。ただの迷信で済むなら勝手にすればの世界ですが、特に一神教では昔も今も殺し合いを平気でやっています。
もう一人まともな救世主が欲しいと言ったら今度は詐欺師が登場するに決まっています。過去にもう何度経験したことですからご注意を。
続く |
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2013年5月2日(木)
今、長野県佐久市の望月歴史民俗資料館にいます。場所は佐久市望月支所のすぐ北側です。
御当地の縄文時代以来の展示がありましたが、当ブログの守備範囲ではないため全て省略、江戸時代の中山道望月宿の展示から紹介しましょう(写真①)。
これが中山道の道のりです(写真②)。中山道と東海道の決定的な違いが分かるでしょう。東海道は海岸沿い、つまり流れる川は河口付近の大河です。雨が降ればすぐに川止めになりました。
一方、中山道は「1日中山道」、川はまだ渓流で渡河するのは東海道よりも容易だったのです。
棹秤の中でも重量級の大秤です(写真③)。
宿札です(写真④)。大名や公家の名が書かれています。今でも旅館などで見かけます。
左は三方でしょうか、右は蒔絵細工を施した書状入れかと思われます(写真⑤)。
左は文政5年(1822年)、右は文久2年(1862年)に小諸藩主から拝領した銚子です(写真⑥)。
だれが拝領したのでしょう。文久2年といえば和宮下向という中山道史上最大の大行事のあった年です。多分、この文書が銚子の拝領に関する書類なのでしょう(写真⑦)。
和宮下向の際にお迎えの年寄花園殿を泊めた功績で拝領したと言うことです。花園殿とは江戸幕府大奥女中だった人物です。
これは和宮下向の前年に人馬などの手配を指示した文書です(写真⑧)。これだけでも想像を絶する「大イベント」だったことが分かります。
これは高札です。ご承知のように、明治という時代は1868年1月25日に始まっていますが、実際に発令されたのは慶応4年9月8日(現行歴1868年10月23日)で、遡って改元が適用されたのです。
このため、慶応4年3月に中野県庁が出した高札が残っているのです(写真⑨⑩)。内容は強訴、逃散を堅く禁じる、密告すれば褒美をやると言うことで江戸時代と変わりません。 左上は刎ね銭帳入れ、 左下は寒ざらし蕎麦を入れる箱、右は行灯です(写真⑪)。刎ね銭とは今で言う割増料金のことです。
笠です(写真⑫)。
とても美しい鞍です(写真⑬⑭)。
幕末の頃の御当地、望月宿の古地図です(写真⑮)。
これも望月宿の様子です(写真⑯⑰)。街道に沿って間口の狭い短冊状の敷地割をしており、こういう区割りのところは今も全国に残っています。
続く
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