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2013年5月1日(水)
今、長野県松本市の松本市安曇資料館にいます。道の駅風穴の里のすぐ東にあります。
刎(はね)橋の話になりました。刎橋といえば国の名勝として山梨県大月市にある猿橋が有名ですが、同じ構造のものが御当地にもあったのです。「雑司橋」という名の橋でした。これが復元図です(写真①②)。
雑司橋の解説がありました(写真③)。ここに展示されている図面や模型は1794年の掛け替えの時の記録に基づき復原されたものです。
これが模型です(写真④⑤⑥)。猿橋と同じ構造であることが分かります。
これは平面図です(写真⑦)。
横から見たところです(写真⑧)。刎橋の構造がよく分かります。
断面図です(写真⑨)。
伝説やその後の橋の歩みです。最後に刎橋として架橋されたのは1876年、その後違う構造の橋に架け替えられ、1911年には吊り橋になったようです(写真⑩)。
さて、次はこういうコーナーです(写真⑪)。地元のお宝写真がある様です。ここは天下の安曇野、全国で3本指に入るくらいのすばらしい景観を見ることができるでしょう。
まずはこれです。奥が槍ヶ岳です(写真⑫)。富士山と槍ヶ岳は素人でも判別できますね。
上高地もすばらしいです(写真⑬)。
これは河童橋です(写真⑭⑮)。現在見られるものは5代目で、初代は1891年に架けられた丸太の跳ね橋でした。この写真は1910年に跳ね橋を吊り橋に改装したもので初代の衣替えという扱いのようです。
これは昭和初期の乗合バスです(写真⑯⑰)。しかし、かなり危なそうな雪のトンネルです。今だとこういうのはとても無理でしょう。
安曇野のお宝写真は続きます。
続く
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第21回大旅行(2013年4月)
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2013年5月1日(水)
今、長野県松本市の松本市安曇資料館にいます。道の駅風穴の里のすぐ東にあります。
こういう展示になりました(写真①)。カンカン帽、中折れ帽、作業帽などがあります。
これは初期型の村田銃、十三年式村田銃ではないかと思います(写真②)。単発式でしたが、これでも火縄銃から脱却した新式の国産銃でした。
大鍋です(写真③)。こういうものを囲炉裏に吊してみんなで食べるというのもいいですね。まあ、現在のカセットコンロでもいいですが。
昔の電話機です(写真④)。手前左には大きな電球があります。どういうところで使ったのでしょう。
これは地元の郵便局の名が入っています。街路灯のように使ったかもしれません(写真⑤)。
盥(たらい)と洗濯板、右にはちょうつ(御手洗)盥があります。ちょうつ盥は洗面器のことです(写真⑥)。 往時の箪笥です(写真⑦)。無垢板製に補強をしているのでとても頑丈でした。上には行灯や石油ランプがあります。
手前左は富山の薬売りから買った常備薬を入れる箱です。この薬は当時の国民の健康増進に大いに貢献しました。 右は木枕です。明治になっても日本髪の女性が使いました。底が舟形になっているので多少の寝返りはできました(写真⑧)。 左は行李、右はお櫃の保温器でしょう(写真⑨)。
スゲ笠と蓑です(写真⑩)。蓑はワラとシナの皮を使ったものです。シナというのはシナノキのことです。
股引と思われます(写真⑪)。
長持ちが解説付きでありました(写真⑫⑬)。見ての通り側面に金具が付いていてここに棹を通して担いで運ぶことができました。
いつ頃の服でしょうか(写真⑭)。
カモシカの剥製がありまいた(写真⑮)。特別天然記念物に指定されていますが、御当地長野県や隣の岐阜県では害獣として駆除の対象にもなっています。
絶滅したオオカミがいればこんなことをせずに済んだのです。中国辺りからオオカミを連れてきて山奥に放てばいいと思うのですが、そうも行きませんね。
続く
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2013年5月1日(水)
今、長野県松本市の松本市安曇資料館にいます。道の駅風穴の里のすぐ東にあります。
これは昭和2年に撮られた写真で、霞沢発電所の鉄管の輸送の様子です(写真①②)。軽便鉄道のような軌道上で馬が貨車を引いています。
これが昭和9年に撮られた大正池です(写真③④)。
昭和10年頃の乗合バスです(写真⑤⑥)。危ない道があった状態は長く続き、平成に入るまで身の危険を感じるところもたくさんありました。
その後は急速に改良工事が行われたのですが、逆に乗合バスは減少の一途をたどっています。テレビで太川陽介らが苦戦している路線バスの旅を見ていると大変だなと分かります。
まあ、別の方法が確保されていますからそれほど心配は要らないかもしれませんが。
次はラジオです(写真⑦⑧)。どんな田舎に住んでいても情報は東京と同じ、これは革命的でした。残念ながらラジオを聞くのは車を運転したり車中泊の時だけになりました。少なくとも、下らない芸人のおしゃべりやテレビの偏向したワイドショーを見なくても済む分、値打ちがあると思います。
ラジオに先行して普及したのが蓄音機です(写真⑨⑩)。今でもこの後輩達は大活躍しています。テレビと違って自分の好きなものを選べるのがいいですね。昨今はブルーレイレコーダーのs性能がよくなったからテレビも見やすくなりました。よく考えるとブルーレイレコーダーはある意味で蓄音機のひ孫や玄孫にあたるんでしたね。
ラジオが普及した時代、それを聞いていたのはこういう囲炉裏でした(写真⑪⑫)。ラジオは急速に普及しましたが、囲炉裏の周辺にあるものが変わっていくのは昭和30年代以降でした。こう思うと、情報がどれだけ大切か分かるような気がします。
囲炉裏の小道具です(写真⑬)。五徳、わたし、火箸、十能が並んでいます。
囲炉裏と自在鉤という解説があります(写真⑭)。郷愁を誘う存在ですが、残念なことに現在のクロス張りの家では煙草の煙でも黄色くなりますから木を燃やすようなことはとてもできません。
すり鉢、湯釜、火鉢です(写真⑮)。
米びつです(写真⑯)。現在も同じ機能のものがあります。
左は箱膳、右は普通の膳です(写真⑰)。
続く
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2013年5月1日(水)
今、長野県松本市の松本市安曇資料館にいます。道の駅風穴の里のすぐ東にあります。
こういう写真がありました。明治の末期頃のものでシュラ(修羅)を使って木材を山から下ろしています(写真①)。危険な仕事でした。
木は川まで運ばれ、そこからは川を流れて下流の土場というところまで来ます。これが大正から昭和初期の土場です(写真②)。
これは大正時代の写真で、新淵橋を通る馬車の様子です(写真③)。後方の山の斜面は一面の桑畑だったそうです。もっと養蚕が盛んになっていたら花粉症もなかったかもしれません。
印籠と聞くとアレルギーがでる人もいるかもしれません。テレビドラマで大した取り柄もない爺さんがこれ一つで偉そうにできるあの印籠です。まずは解説です(写真④)。
これがその印籠です(写真⑤)。
矢立は時代劇でよく登場するのでご存じでしょう(写真⑥)。
簪(かんざし)もありました。まずは解説です(写真⑦)。
美しい簪、笄(こうがい)です(写真⑧⑨⑩)。
これは櫛ですが、左は梳き櫛、右は筋立てとか結い櫛と呼ばれます(写真⑪)。
金属製の鏡です。右は何でしょう、香木でしょうか(写真⑫)。
これは台秤と棹秤を組み合わせたような構造をしています。秤が人の生活と切っても切れない関係にあるのは今も同じです。現在はあらかじめ計量したものや規格品になったものが流通するため、見かけなくなっただけのことです(写真⑬)。
分銅も今となっては懐かしいです。学校の理科教室にはまだこういうものが残っているでしょうか。右端は鍵です(写真⑭)。
財布、紐のあるのは胴巻きでしょうか(写真⑮)。まあ、昔だと落としたりすられたりしたらその分のお金だけ損をしたと思えば終わりだったのですが、色々なカード、保険証、免許証などなど現在の方が財布を落とすと大変なことになります。
いつも同じ場所にしまっておいて存在確認をしましょう。車で旅行するときは目に見えるところにおくと安心します。
では次に行きましょう。 続く
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2013年5月1日(水)
今、長野県松本市の松本市安曇資料館にいます。道の駅風穴の里のすぐ東にあります。
野良着がありました。手袋、袖無し、ワラジ、地下足袋、脚絆です(写真①)。
軽便手押ポンプです(写真②)。
消防の纏(まとい)です。金色や紅白の馬連が付いていますが、ただ者ではないことが分かります(写真③④)。
こういう認許証がありました(写真④の2)。展示されている金馬簾がこの書類に出ているものかもしれません。
消防の制服の法被、弓張り提灯です(写真⑤)。
御当地の消防の歴史です(写真⑥⑦)。文中、女子警棒隊とあるのは、戦争で男が少なくなったために編成されたものです。現在の田舎では今度は人そのものが少なくなり、女性も消防団員というのも普通になってきました。
御当地でも明治の頃に大火がありました(写真⑧)。昭和になると件数も焼失戸数も減っていますが、過疎化や火の用心の徹底、生活用品の改良というようなことがあったのでしょう。
右は半鐘、寺ダリはトビとノミが合体したような道具です(写真⑨)。この道具で燃えるものを除去して消火したかもしれません。
これは先の大戦時に戦費調達のため発行された戦時国債です(写真⑩)。額面10円の国債を持っていた場合、額面で換金されます。
戦後のインフレがどのくらいだったか諸説ありますが、仮に最初の4年間で200倍とすると、仮に額面10円の国債を200枚持っていた場合、2000円出したものが購買力で10円になったということですから紙くず同然、要するに国は合法的に債務を免れたのです。こうしないと戦後の復興はなかったでしょう。 日本が先制攻撃されて国の力を無くしたときは同じことがおきますから、他国の侵略に負けないための備えにお金を出すのは自分の財産を守ることに直結します。「ケンポーキュウージョー」などと唱えるのは時代遅れの石頭がすることです。
同じことが今後も起こるといって騒ぐ人もいますが、それは亡国の事態に瀕したときです。そうならない備えが必要です。 ここにも手押ポンプがありました(写真⑪)。
再び押し絵雛が登場しました。詳細な解説があったので紹介しておきましょう(写真⑫⑬)。
押し絵雛が本格的に人気が出たのは明治になってからでしたが、明治の末になると本物のひな人形に押されたこと、粗製濫造、大火もあって大正時代にはほぼ途絶えたようです。昭和49年になって篤志家により復活を果たしたようです。
これがその押し絵雛です(写真⑭)。
これは風車と幟だと思われます(写真⑮)。
続く |






