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古代出雲と大和を結ぶ経路は、大まかに3系統あったとされています。
1.大和から、保津川沿いに園部・丹波・綾部、そして丹後半島あたりの港に出て、その後は日本海沿いに船か陸路で西に向う経路。
2.大和から、今の中国縦貫道に沿った形で播磨を抜け、美作・津山・勝山といった比較的平坦な山沿いを抜け、伯耆に入り溝口あたりを通る経路。
3.船で吉備の岡山市あたりまで行き、高梁川を遡り奥出雲・飯南といったところに出る経路。
この3つのうち、1番目が本来古代出雲が交易や交流に用いたコースではないかとされています。潟湖を利用して東に向かい、丹後半島に上陸し、そこから陸路で、大和へと向ったのではないでしょうか。
2番目は陸路のみなので時間はかかるかもしれませんが、交通上は一番安全とされ、後の参勤交代の街道として松江藩が用いたことから、出雲街道とも呼ばれています。
3番目は、門脇禎二先生の『出雲の古代史』によれば、大和朝廷が吉備と結んで、出雲の服従を成功させたときのコースとされています。
そして、1番目のコースには、亀岡の丹波一の宮「出雲大神宮」があり、そこの主祭神は「オオナムチ」、2番目のコースには、宍粟郡一宮町の播磨一の宮「伊和神社」も「オオナムチ」が主祭神です。
備中一の宮は「吉備津神社」ですが、そこの主祭神は「大吉備津彦命」で、各地域の豪族を服従させるために派遣された四道将軍の一人です。したがって、3番目のコースは使いにくかったと思われます。
それにしても、丹波、播磨に、なぜこれほどまでに影響力を与えることができたのだろう?
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「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。即ち今の出雲大社これなり。」(丹波国風土記)丹波一の宮“出雲大神宮”は古来より元出雲の信仰があるそうです。神社の御由緒には、「出雲大和両勢力の接点」と書かれてありました。丹波も古い言い伝えが残っていますが、当時の出雲や大和地方の人々がどんな生活をされていたのかとても興味深いです。
2005/11/15(火) 午後 11:36
andante45_54さん>たしかに丹波、丹後、但馬はもっと重視されるべきところです。もうすぐ書き込もうかと思っているところです。
2005/11/16(水) 午前 9:30 [ shigechanizumo ]
andante45_54さん>丹波一の宮は「元出雲」、丹後一の宮「籠神社」は「元伊勢」。どうして「元」と名のるでしょう。しかも、日本を代表する二つの信仰が、丹後、丹波を元に、本当に発生したのでしょうか。
2005/11/16(水) 午後 5:35 [ shigechanizumo ]
大和の笠縫邑(三輪の桧原神社)から天照大神のご神託で豊鋤入姫命・倭姫命が巡幸なされ、最後は伊勢に落ちつかれたという伝承に関連しています。元伊勢というのは、伊勢神宮に鎮座される前におられたところと単純に解釈しているのですが、その巡行歴も多くの説があるようです。あと、大和朝廷を開かれた神武天皇のご先祖さまが丹後の地に渡来されたという説もあります。(丹波の古代史:山口氏)私自身まだまだ知らないことばかりなので、断片が繋ぎ合わさっていけばいいなと思っています。
2005/11/17(木) 午前 6:00
「丹波の古代史」については、書庫のほうで、また残していきたいと思います。大変スローなのですが、どうぞよろしくお願いいたします。
2005/11/17(木) 午前 6:01
andante45_54さん>よろしくお願いします。丹波と出雲の中山間地はいろいろと共通した地形ともいわれており、その点を今度ご紹介したいと思います。
2005/11/17(木) 午後 4:36 [ いずものしげちゃん ]
日本は世界の雛形であるという説もあるようで、ご存知でしょうか?たとえば、出雲は古代のシュメール、つまり現在の中東地域にあたります・・・
2005/11/17(木) 午後 9:05 [ sin**awa5* ]
sinagawa50さん>ドイツの文化人類学者シュミットなんかの、文化圏論なんかを見ると、雛形というか類似は類似を呼ぶ、あるいは、文化の伝播はある条件の中では、ある一定のパターンをもっているともいえそうですね。
2005/11/18(金) 午前 9:27 [ shigechanizumo ]