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以前にもご紹介した、関裕二さんの著作です。PHP文庫からの出版です。
古代出雲が、武蔵の国など東国経営に関わったことは、このblog『古代出雲と「関東 氷川神社」の謎』でもご紹介しましたが、関さんは、古代出雲と東国について、この本でいろいろと推理されています。
古代日本の最大の内乱といえる、壬申の乱で圧倒的に不利と見られていた、大海皇子が、大友皇子に勝利したのは、古代出雲が大きく関係したとされます。この戦いは、大海皇子が東国の軍事力(特に尾張氏の協力)をフルに活用して不破の関をおさえ、一気に近江大津京に進撃したことが勝因とされます。
そして、古代東国を開拓したのは「出雲」であり、だからこそ東国の人々は「出雲」に全幅の信頼をおいていたといいます。東国に出雲の陰が濃厚なのは、越の沿岸部から内陸部へ、という弥生時代後期以来の「出雲」の働きかけが発端になっていると指摘されます。
さらに、東国の雄「尾張氏」は、出雲を本貫とし、また驚くべきことに「蘇我氏」も、出雲を本貫とする出雲出身一族の末裔であると論証されています。その、「尾張氏」と「蘇我氏」は、その後「葛城」を拠点とした深いつながりがあったというのです。
ではなぜ、「尾張氏」も、「蘇我氏」も由緒正しき「出雲」の末裔であったのに、『日本書紀』が抹殺したその理由は、滅んだ「蘇我氏」をどこの馬の骨とも知れぬ存在に見せかけ、その上で、「悪者」に仕立て上げるためだったと論じられています。
出雲大社境内の「素鵞社」→「ソガ」、大東の「須賀」神社→「スガ」→「ソガ」=「蘇我」と推理されます・・・・・。
先日、蘇我氏の居宅址ではないかとの遺跡が見つかったと大々的に報じられました。たしかに、「蘇我氏」は、『記紀』に先立つ歴史書を編纂したのではないかとされています。もし、その史書が残っていたら大変な日本国成立の謎が判るともいわれています。古代出雲の真実もその中では多く語られていたかもしれません。もったいない・・・・。
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はじめまして〜お訊ねいたします。日本国成立の「国の成立」とは?史述の始まりと受け止めれば宜しいのでしょうか。呼称、「倭」=「日本」の原初と云うことになりましょうか?
2006/8/8(火) 午後 4:29
ご訪問ありがとうございます。「日本人とは、日本の国制化にある本来多様な人々のことを言うのであり、もともと〈日本人〉なる集団がいて、日本を形成したわけではない。」という「網野善彦」先生の考え方が参考になります。日本国成立の「国の成立」とは?とは、日本という「国号」を使い始めた時というのが正確ではないでしょうか。実態は別として。
2006/8/8(火) 午後 4:49 [ shigechanizumo ]
承りました。有り難うございました。
2006/8/10(木) 午前 9:03
不破関(ふわのせき)は、古代東山道の関所である。
東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに、畿内を防御するために特に重視され、これを三関という。三関から東は東国または関東と呼ばれた。
672年に発生した壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)の命により美濃国の多品治によって「不破の道」が閉鎖される。この近辺が激戦地となっている。
よく誤解されるが、壬申の乱で閉鎖されたのは「不破の道」であり、不破関ではない。
673年、天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を守る為に、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所が設置される。
701年(大宝元年)、大宝律令によって正式に定められる。
789年(延暦8年)、天皇・太上天皇の死や病などを契機として三関封鎖され、廃止される。
非常時に関の封鎖を命じる「固関」(こげん)の儀式が江戸時代まで続いた。
徳川幕府により東山道が中山道として整備されたころと推測される。その以前から関所の機能はなくなっていた。
2012/7/6(金) 午前 6:01 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]