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大和朝廷がその権威をもって、地方の豪族や由緒ある神社などの宝物を調べただすことを、「神宝検校(ケンギョウ)」といいます。
出雲の神宝が古くから注目されていたことは、たとえば、『日本書紀』の崇神天皇六十年七月の条や垂仁天皇二十六年八月の条の、出雲の神宝の貢上あるいは出雲の神宝の検校などの伝承にもうかがうことができます。
さて、『日本書紀』に出てくる話とは、日本書紀崇神天皇六十年の条に、「崇神天皇は天穂日命(アメノホヒ)の子武夷鳥(タケヒナトリ)が天から持ってきたと伝えられ、出雲大神の宮に納められている出雲の国の神宝の提出を、武諸隅(タケモロスミ)を遣わして出雲に要求します。
神宝を司っていた出雲振根(イズモフルネ)が筑紫へ出かけて留守の間に、弟の飯入根(イイイリネ)は、神宝を我が子鵜濡渟(ウカツクヌ)と弟の甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)に持たせて朝廷に貢上してしまいます。
筑紫から帰ってこのことを知った出雲振根は怒って弟飯入根を止屋(ヤムヤ)の渕でだまし打ちで殺してしまいます。飯入根の子と弟がこのことを詳さに朝廷に奏上すると、朝廷は軍を派遣して出雲振根を誅殺した」という話です。
次に、垂仁二十六年秋八月の条には、物部十千根(トチネ)大連が、出雲の神宝を検校した話が出てきます。十千根大連は、古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、大和朝廷の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている石上神宮(いそのかみじんぐう)で、神宝も管理することになったといわれています。
大和朝廷は二度も出雲の神宝を検校したことになります。この二つの関係を、「崇神六十年の時に既に神宝は出雲から朝廷に提出されているはずなのに、垂仁二十六年に物部十千根を神宝の検校のために出雲へ行かせるのは矛盾点がある。」とすべきか、そうではなく、「まだ他の神宝も持っていた。」とするか見解が分かれます。
古代出雲に「神宝」が存在したことは、『出雲国風土記』の大原郡神原郷の条が「所造天下大神(大穴持命)の神御財、積み置き給ひし處なれば、則ち神財郷と謂ふベきを、今の人猶誤りて神原郷と云ふなり」と述べる神宝伝承からも窺い知ることができます。
神原が加茂岩倉遺跡、荒神谷遺跡に近いことから、その神宝とは、両者から発見された青銅器群ではないかと指摘する人もいます。・・・もっといいもののようにも思えるけど・・・。見てみたいなー。
大和朝廷が大物を遣わしても、見たい・持ち帰りたい、そして持ち帰った「古代出雲の神宝」とは何だったのでしょうか。
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ちょーっと見ない間にいろいろと書かれましたね。 プリントアウトして年内には全部読んで感想書きます。 ところで今週は松江市鹿島町の佐陀神社で「お忌み祭」をやってます。懐かしい「てんぽなし」もありますよ。本殿の所には「竜蛇様」も来られてますのでぜひご覧下さい。 何だか、全然関係無い事を書きましたね。それではまた。
2005/11/22(火) 午前 10:07 [ けいちゃん ]