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ドイツ・オーストリアのウィーン学派に連なる、世界的な文化人類学者の故「岡正雄」先生は、名著『異人その他』の中で、次の五つの「種族文化複合」が次々と日本列島に渡来したと考えておられます。
(1)母系的・秘密結社的・芋栽培−狩猟民文化(縄文中期)
(2)母系的・陸稲栽培−狩猟民文化(縄文末期)
(3)父系的・「ハラ」氏族的・畑作−飼畜民文化(弥生初期)
(4)男性的・年齢階梯的・水稲栽培−漁労民文化(弥生初期)
(5)父権的・「ウジ」氏族的−支配者文化(弥生末期)
(1)(2)は、南方系の海洋文化、および、いわゆる大陸の北緯35度線前後あたり(日本では静岡・京都・出雲)から華南に広がる照葉樹林文化に重なり、(3)は、大陸の北方民族系の文化に重なり、(4)は魏志倭人伝にでてくる鯨面文身して水稲栽培と漁労をしている人々に重なり、(5)は騎馬民族征服説に重なると思われます。
この文化複合を、古代出雲に当てはめてみると、まさにすべての文化複合が出雲で出現していたと考えられないでしょうか。それは、出雲が多様な自然的地形を有していたこと、および地理的にその流入を受け入れるに有利な立場にあったからです。
このblogの『古代出雲の食卓』で紹介したように、(1)、(2)は、湿潤な気候と多くの河川そして扇状地・盆地を抱えている出雲では、十分に受容可能な文化です。そして、(3)は朝鮮半島を南下してきた北方の文化をもった人々が、対馬海流に乗って出雲に渡来し広めることができました。また(4)は、島根半島に見られる漁労文化で、つい明治・大正の時代までは男性的・年齢階梯的な文化の象徴である「漁村の若者宿」が存在しました。
最後に(5)は、国譲りによって、大和の政権から間接的に受容したと思われます。ただ、騎馬民族=大和の政権であったとすれば、その支配者的文化は、階級性の薄い(1)〜(4)の文化受容・複合を成し遂げることによって、他の地域よりもはるかに栄えてきた古代出雲にとっては、受容しにくい文化だったのではないかと思われます。
そして、このことが大和が出雲に「国譲り」を迫った遠因だったのではなかったか、と考ることはできないでしょうか。
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様々な時期に、様々な人々と文化が日本に流入してきたことは理解できます。
2007/7/15(日) 午後 1:57 [ mar*co1*71 ]
私が、以前に読んだ本(書名など忘れました。)の微かな記憶によれば、騎馬民族は、鉄器文化を持って丹後半島に到達し土着して勢力を伸ばしたと記憶しています。
そして、後に継体天皇を送り出したと、、、
丹後半島の鉄器文化は、鉱山から鉄を求めた集団だったことから、中国山脈を渡り歩き、斐伊川の砂鉄とめぐり合い、出雲の砂鉄文化と衝突したのが、スサノオのオロチ退治ではなかったかと、、、
私の古い記憶です。あしからず。
2009/6/10(水) 午後 11:53 [ ben ]
psx*j95*さん>おっしゃるように、渤海使が能登や出雲に流れ着いたように、日本海側には、朝鮮半島より奥の地域からも渡海があったのでしょうね。その奥の地域は高句麗などで騎馬と鉄の文化を持っていた氏族たちですね。
2009/6/11(木) 午前 9:21 [ shigechanizumo ]