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徐福たちの信仰する道教は、不老不死のために霊薬を作ります。その霊薬は、薬草とか薬木だけでなく、その原料に金属を用いることがありました。一番有名なのは水銀(丹)でした。そのために水銀中毒になって死んだ皇帝もいました。そして、中世の錬金術のようにいろいろな金属を混ぜて合金を作り、それを粉末にして飲んだりもしたそうです。
従って、徐福一行は錬金や金属製造・金属精製の技術も持っていたのです。さて、徐福一行は、出雲の土地を調べ、自然銅の露出や黄銅鉱などの鉱物資源があることを発見しました。特に出雲で採れる自然銅は、純度が90%を超えるものも多いのです。この自然銅は島根半島に多く、出雲大社の裏山の奥にも、鵜峠鉱山という銅山があり終戦後まで稼動していました。
徐福一行が、この鉱物資源を見逃すはずはありません。荒神谷遺跡の青銅器群はAC200年頃に埋納されたという考えがありますが、徐福一行はBC200年頃の出雲来訪です。荒神谷遺跡の銅剣は、出雲の自然銅で作られたものだとする説がありますが、そうだとすれば、それに先行する技術や、現実の青銅器製造は徐福一行によってもたらされ、行われていたと考えることもできます。
オオクニヌシの別名に「大穴持」というのがあります。出雲市大社町在住の郷土史家の人は、「大穴持」とは「大穴」=「鵜峠鉱山の坑道」であり、銅が採れる大穴、しかもそれは、出雲大社の裏山から二キロほどの山中にあり、それの所有者が出雲大社に祀られるオオクニヌシであるところからきた名前だと指摘されています。
さらに、オオクニヌシは「八千矛の神」であり、その矛は銅製だったはずです。しかも、オオクニヌシの子「アジスキタカヒコネ」は、名前の中の「スキ」が示すように金属の神様でもあります。真偽はともかく、ここでもオオクニヌシと金属製造のかかわりで、徐福一行がオオクニヌシと同時代性を持っていることがわかります。
次に、金属製造には、製陶技術と相通じるところがあります。高い温度の火力、火や窯(炉)の管理などです。出雲製の弥生時代の山陰系土器は、大和や北陸・吉備といった広い範囲で流通しました。『出雲国風土記』の島根郡朝酌郷大井浜では、「陶器を作れり」とあり、18もの窯跡が発見され、古代の製造センターだったとされます。この窯跡は5世紀のものとされますが、徐福一行の技術伝授という過去の基礎があってのことではないでしょうか。
また、出雲出身の野見宿禰は、埴輪の元祖で、200人もの土師職人(陶器を作る人)を大和へ連れてきています。そして、『日本書紀』によると、天皇に殉死を止めて、代わりに埴輪を古墳に置くように進言します。なぜ、出雲の野見宿禰が、そんなことを言い出したのでしょうか。
秦の始皇帝の「兵馬俑」では、たくさんの兵士や馬の陶器製の人形が埋まっていました。徐福たちは「秦」の国の人たちですから、始皇帝に限らず「秦」ではすでに「殉死」ではなく、埴(土)で造った人や馬を追葬する風習があることを、出雲の人に伝えていたのが原因ではないでしょうか。年月を経て野見宿禰の時代に、そのことをヒントに天皇に進言が行われたと考えられるのです。
進んだ青銅器製造技術があった「秦帝国」から来訪した徐福一行は、古代出雲に金属製法、新しい土器の製造方法、そして葬送の風習までをももたらしたに違いないのです。
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「兵馬俑」と野見宿禰がつながるとは思いもよりませんでした。
2007/7/15(日) 午後 5:04 [ mar*co1*71 ]