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今までの検討で、いかに「古代出雲発」の画期的な出来事や伝承が多いことか、そしてそれらのほとんどは、スサノヲ・オオクニヌシそしてその眷属(とりまき)にまつわることとして『古事記』『日本書紀』に記載されています。
日本列島は南北に長い列島なのですから、それらのことが日本のいろいろなところで起こり、それが大和政権に集約されたといったストーリーで『記紀』が書かれてもよかったはずです。しかし、重大なことはすべてといっていいほど「出雲発」なのです。
ここでは、その謎を、ある時代のある時に、古代出雲でとんでもない技術・文化の変革が興ったことに求めました。一部の歴史家は、古代出雲に大型古墳がないとか、律令制以後の出雲の衰亡した姿を捉えて、そもそも出雲はたいしたところではなかったとされます。
しかし、「物」ではなく古代日本に一大イノベーション(技術革新)をもたらした「画期」が、出雲から生じたとするならば、『記紀』に占める出雲の巨大な地位は、すんなりと納得できるのです。特に、『古事記』「神代の巻」の神話の三分の一は出雲のことで埋められています。また、『日本書紀』では、生き生きとした出雲の神々が書かれています。
もし、これが「画期(エポック)」makingではなく、古代出雲からダラダラと発信されていたのなら、単なる時代の進歩にあたって、出雲の影響が所々あったとされるくらいのことでしょう。しかし、出雲の影響力は、爆発的なものでした。それだからこそ『記紀』は、出雲のこと、出雲の神々のことを書かざるを得なかったのです。
さて、その「画期」は、徐福によってもたらされたと考えました。何百・何千人という徐福一行が到達したのは、出雲だったのです。徐福一行と手を組んだ古代出雲の人たちは、その先進技術を学びました。一人や数人の渡来人の来訪では、その渡来人がいくら優秀でも、ひとつのまとまりのある地域に、爆発的なイノベーションを起こすことはできません。現に、渡来人が漂着するのは出雲に限ったことではありません。しかし、先進技術満載の幾隻もの船と人、そして、その人たちの定着と、現地人との交流そして協力・協働。多方面での爆発的なイノベーションは、当然のことだったのです。
日本には、最初に指摘したように30を超える地域に徐福伝説が残っています。しかし、徐福が何をもたらしたのか、それでどのような変化が起きたのか、徐福はその後どうしたのか、詳しく語る地域はありません。そこで、徐福は来なかったという批判が出るのです。
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「そこで、徐福は来なかったという批判がでるのです」ということばが、すと〜んと自分の腑に落ちました。この言葉くらい、出雲渡来説を決定づける言葉はありません。すっごく、感動が押し寄せてきました。これは、本になるべき研究です。広く、世の人に知らしめたいですね。
2005/12/27(火) 午後 8:59
ラクシュミーさん>全く、否定することほどたやすい意見はありませんからね。ありがとうございます。
2005/12/28(水) 午前 9:04 [ shigechanizumo ]
私も記事を読むまで、徐福はどこかで、寂しく、のたれ死にしたかと
思っていましたが、考えてみると徐福はそんな馬鹿者ではなかったはずで、ご説明が納得できました。
2007/7/15(日) 午後 5:12 [ mar*co1*71 ]