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「山陰地方連合体」の構想は、島根大学名誉教授の山本清先生によって展開されました。では、それはどういった構想なのでしょうか。以下、先生の述べられるところを抜粋してみます。
「荒神谷の銅剣は、ほぼ形のそろった品で、比較的短期間に作られ、一括ここに持ちこんで埋納されたもののように見える。そうとすれば、製作地はどこであれ、これだけの品を保有した主体がこの地域に存在したはずである。その性格は、独裁君主といった形態は当時の社会形態としてはまだ現れる段階ではなく、祭祀を中心に地域の首長によりまとめられた多くの農村集団が、あるいは中間的集合体をも形成し、広い地方連合体を作り、総首長のもとにまとめられているといったあり方を考えてみようというのである。」
「山陰にこうした大きなまとまりがあったという想定に対し、記紀などの神話から弥生時代をも推測される人には、かなり賛成者があろうが、古墳時代の実態を知る人には疑問視する人が多いかとも思う。(なぜなら)豪族の勢力を反映する墳丘の規模や副葬品の質と量は、畿内方面とは比較にならぬ程度(少ない、小さい)というのが実態だからである。しかし古墳時代がそうだから、弥生時代にも強大な存在はあるはずはないと言えるかどうかが問題である。」
※山本先生は、このように前提を置かれ、いよいよ核心を指摘されます。
「しかし、たいした実在でもなかった出雲の神がなぜ国譲り役の代表として扱われたかということは、余りに明瞭に説明されていないようである。
土器は私見では専門の工人集団の手で作られたと考えるが、その作品が地方色をもつのは、多くの工人集団の行動範囲がきまっていたためと思う。そこでさきに想定した『地方連合体』ともいうべき範囲は、彼らの最も安全自由に行動できる地域であり、たとえばそうしたことやその他の経済上、防衛上、交通上等の必要と便宜のため結合が成立したことが考えられるのではなかろうか。」
「(その後)、畿内はそれまでにすでに文化的、経済的、地理的、軍事的に有利な素地を発展させていたであろうから、何かの好機を利して、決定的な統一の新体制を作り出したと考える。山陰も(畿内の)新体制のもとに制約される結果となったので(が)、それまでは、山陰に大きな地方連合体があったと考えても矛盾はないではあるまいか。」
「魏志倭人伝を見ると、地名や習俗など、かなり、後世まで伝存したことを思わせるが、かつての地方連合の中核であった少なくも『出雲地域』だけは、一つのまとまりを持続し、したがってその祭祀国家的側面を変容しつつも持続したとすれば、かつての地方連合の記憶や、祭神、首長等に関しても、地域の内外ともに、主要イメージは伝承されたと考えることもできよう。」
※このように、先生は『記紀』の記述は創作されたものではなく、当時(弥生時代)の出雲の実態が変容されつつも、伝承として残り、その色濃く残されて存続した出雲像が『記紀』に反映されたとされます。
「政治、社会の変化に応じ、神や首長のイメージも変容しっつ伝承されたであろう。しかし畿内政権も、地方連合体の後身も、変容しつつも祭祀国家的性格を色濃く保ちつつ存続したとすれば、畿内政権からみた出雲像が、記紀神話に表現されているような形になったことも理解できるではなかろうか。」
※まさに、奇を衒わず、しかも説得力のある論証だと思います。
詳しくは、http://www.highlight.jp/kougindani/03.html を参照してみてください。
先生は、その著書『古代出雲の考古学』の中で、次のようにも述べておられます。
「山陰の土器は弥生時代後期から古墳時代前期にかけて顕著な地域的特色を示すので、一つの文化圏、生活圏をなしていたと思われるが、斐川町荒神谷遺跡で358本の同型式の銅剣が出土したとき、私は山陰に分与するために用意されたものと考えた。 山陰が一つの連合体をなしていてその中心=盟主が、荒神谷に近いところ=後の「出雲の国」の西部にあったと考えたのであった。(本文より)」
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古墳時代の直前に畿内政権が出雲王権を圧倒していく過程が、国譲り物語に描かれているとも考えられるのですね。
2007/7/18(水) 午前 1:17 [ mar*co1*71 ]