いずものこころ

みんなで古代出雲を探検しましょう!

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前回は、磐井の反乱と古代出雲について考えてみましたが、それよりずいぶん以前、「卑弥呼」が擁立される前には「倭国大乱」という、時代を画する大事件が日本国内で起こりました。
そのことと、古代出雲について検討してみることにしましょう。

まず、「倭国大乱」とは何だったのか見てみましょう。倭国大乱は、弥生時代後期の倭国で起こった争乱であるとされています。日本史上初の大規模な戦争だったとする意見もあります。このことは、中国の史書『魏志倭人伝』や、『後漢書東夷伝』に載っていることから、史実ではないかとされているのです。

『魏志倭人伝』は次のように書いています。「その国(倭国)は元々、男子を王としていたが、70〜80年ほど経つと倭国は乱れた(倭国乱)。何年も互いに攻め合ったが、最終的に一人の女子を擁立し王とした。名を卑弥呼という。」

『後漢書東夷伝』では、「桓帝・霊帝の治世の間、倭国は大いに乱れ(倭国大乱)、さらに互いに攻め合い、何年も王がいない状態が続いていた。そんな中、一人の女子が現れた。名を卑弥呼と言い、年長で、鬼道を用いてよく衆を惑わしていた。ここに、各国は共同で卑弥呼を擁立して、王とした。」とあります。

二つの共通のことが、書かれています。「大きな乱があり、お互いに攻め合っていた」こと、「卑弥呼という女子が現れて王となり、大乱は収まった」ということです。『後漢書東夷伝』では、「桓帝・霊帝の治世の間」という具体的な年代も出てきます。これは、紀元146年〜189年の間となります。約40年も抗争を繰り返していたことになります。

この騒乱がどの程度の規模だったか、具体的な記述はありません、そこで、諸説が出てくるのですが、「北九州から近畿までの瀬戸内海沿岸にわたる広域的なものだったとする」説がもっとも有力だとされています。一方で、「倭国大乱は北九州あるいは畿内だけの限定的な争乱だったとする説なども一部で提唱されている」のですが、ここでは中国の史書も書き残すくらいですから、前者の説で話を進めましょう。

ところが、この「倭国大乱」の原因については、ほとんど分かっていないのが実情です。しかし、倭国大乱の歴史的意義として、卑弥呼を中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられるといっても良いでしょう。卑弥呼はその新体制である「邪馬台国」の女王として、中国に使いを出したり、また中国から使者が来たりして、日本の古代を知る上で最も重要といってよい『魏志倭人伝』が書かれたのです。

そこで、当時の古代出雲は、この「倭国大乱」とどう関わったのでしょうか。もちろん、出雲でも、その頃の遺跡や、土器などの遺物が見つかっていますから、集落が形成され北部九州や、畿内と同じように集団生活や稲作などの生産活動が行われ、クニと呼べる共同体が形成されています。倭国大乱が「北九州から近畿までの瀬戸内海沿岸にわたるもの」だったとしても、日本海海域の出雲とは関係のないものだったとはいえないはずです。次回より少しずつ検討していくことにしましょう。

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なんだか、わくわくしてきました。次回の記事を楽しみにしています。

2006/1/31(火) 午後 9:14 Yukie Yamamoto

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ラクシュミーさん>お久しぶりです。お元気でしたか。お楽しみいただければ幸いです。

2006/2/1(水) 午前 9:11 [ shigechanizumo ]


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