|
古代出雲について、西と東の勢力との関係が、どのようなものであったかの検討が行われることがあります。
西の勢力とは、今の出雲平野を中心として、北は出雲大社に連なる島根半島、南は荒神谷遺跡・西谷遺跡を懐に抱く丘陵地に、勢力を張った人たちです。
東の勢力とは、東出雲町、松江の大庭・古志原・乃木・川津・八雲地区、そして安来・伯太地区で勢力を張った人たちです。
確かに、双方相拮抗するパターンになっています。遺跡から見ると、西は、荒神谷遺跡・西谷遺跡・原山遺跡・矢野遺跡などなど。東は、西川津遺跡・タテチョウ遺跡・山代二子塚古墳・仲仙寺古墳群などなど。
神社を見ると、西の、出雲大社・須佐神社・神代神社・万九千神社などなど。東の、熊野大社・八重垣神社・六所神社・野城神社・揖屋神社などなど。
大神を見ると、西の所造天下大神(オオクニヌシ)、東の野城大神、熊野大神、佐太大神。
これらの勢力が拠り所にした地理は、西の、斐伊川・神戸川・神西湖・宍道湖西岸。東の、意宇川・飯梨川・伯太川・中海・宍道湖東岸となります。
この西と東は、途中の丘陵地(宍道町から玉湯町にまたがる平野の少ない部分)によって二分され、上記のように見事に相劣らず拮抗するのです。
ここから、古代出雲といっても一枚岩ではなく、西と東の勢力の様々な力関係があり、そこから生じる歴史の展開があったのではないかとされるのです。
このことを、一番端的に物語る論争があります。それは、大和政権に先に屈服したのは、東の勢力なのか、西の勢力なのかというものです。ある史家は、東の勢力がまず屈服し、西の勢力を大和政権とともに滅ぼした、と論じられます。一方で、そうではなく西が先に屈服し、続いて東が屈服したとされる論者もいらっしゃいます。
なんだかどっちでも良い、何はともあれくやしい話ですが、実は大事な話なのです。なぜなら、西の屈服が先か、東の屈服が先かによって、出雲大社と熊野大社の関係や、国造と出雲大社の関係、さらには前方後円墳の分布の見方など、出雲にとって重要なことの解釈が変わってくるからなのです。このことについて、次回より考えることにしたいと思います。
|