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さて、今回は大きく西日本に目を向け、古代の各地域がどのように変容して行ったか、そして、最終的な覇者大和政権は、どのようにして全国をまとめ上げたのかを考えてみたいと思います。
この点については、古くより様々な、そして膨大な論考があります。そこで、想像の翼の力を借りる前に、どのような考えがあったのか、まずそのことから検討したいと思います。
上掲の図は、いわゆる『個別自生説』といわれるものです。この他にも「予告」で掲載したような代表的な考えがあり、またその変形も数多く提唱されていますが、一応おおまかにパターン化しておきました。
さて、これは、どのような考えなのでしょうか。
図を見てもらえば分かるように、各地域にムラからクニへと発展してきた領域がありました。そして、それらをさらによく検討すると、いずれも共通した特徴があります。筑紫・吉備・大和・出雲には、筑後川・高梁川・大和川・斐伊川という稲作の豊穣を生む川があり、そこには平野が広がっています。
ムラからクニへと発展するには、稲作がもたらされて以後、生産性が高く、かつ暮らしやすく安定した土地が必要でした。そして、生産性の向上のために灌漑や用水の管理、収穫後の分配などのために、指導力を発揮する長(オサ)が生まれます。そして、この長が余剰生産物を利用して一層権力を高めます。
次に、先の四つの地域には交易のための、海と港があります。博多湾・児島湾・河内の潟・出雲の入海などです。クニへと発展し、その権力が続くには、その地域での消費の循環だけでは足らず、対外交易をして権威を高める必要があります。自らの地域にはない希少価値があるもの、例えば、玉・貝輪・金属などを入手するのです。そのためには、海を利用した交易のための良港が必要でした。
見るからにこれらの条件を満たす地域です。ある意味では生まれるべくして生まれたのが、上記の地図のクニグニでした。
これを、『個別自生説』としても良いでしょう。確かに、静的に見ればその通りです。そして、それぞれの地域にクニが存在したことも事実です。このことを否定する人はいません。しかし、そのことから、それぞれの地域間の複雑な関係を軽んじて、「その中から、やがて大和政権が強大化し、最終的には一人勝ちをした。」と考えるのは早計に過ぎるのです(上図・右)。
なぜなら、古代といえども歴史のダイナミズム(動態)が存在していました。中国大陸では、合従連衡という言葉も生まれています。さらに、筑紫地方や出雲地方は、朝鮮半島を含む、東アジアの政治情勢の影響も敏感に受取っていました。国内で地域勢力として多少抜きん出たからといって、たやすく統一への道が歩める訳ではないのです。従って、大和政権の統一までには、いろいろな歴史のドラマが生まれたのです。
しかも、この説は、なぜ大和に出雲の神々が祀られているのかとか、天孫族とか天津神と国津神の違いはどこから生まれたのかとか、『記紀』の「中つ国」とは出雲ではないのかなどの謎解きに答えにくい弱みを持っているのです。そのことと絡めて、次回にしたいと思います。
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大和政権が強大化した理由を、九州地方の勢力が大和に移転したことに求める説に魅力を感じます。
2007/8/12(日) 午後 2:41 [ mar*co1*71 ]