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出雲をよく訪れられ、シンポジュウムや講演をされる俳優に、苅谷俊介さんがいらっしゃいます。苅谷さんは、演劇のことを講演されるのではなく、趣味の域を超えた自らの古代史についての講演をなさいます。その苅谷さんの寄稿文に、次のようなものがありました。
「こうした古代出雲世界の中で、あまり全国的に日の目を浴びていないのが、島根半島の沖合約40〜80キロに浮かぶ“隠岐”ではなかろうか。今、40〜80キロと記したのは、隠岐が180程の島からなる群島だからである。」
「(中略)又、海士町の地名からも、日本海を制する海人族の一大拠点が隠岐にあったであろうことは想像に難くない。更に、同島の月無遺跡からは、弥生前期末の農耕文化が確認されている。隠岐が一国としてあつかわれた背景には、こうした早くからの弥生農耕、海人族の活躍などがあったからであろう。」というものです。
何回か、このblogでも言及しましたが、あらためて古代出雲と海人族について書いてみたいと思います。
「海人族」と一口に言っても、由来や歴史や役割など、どの視点から捉えるのかによって説明は様々です。まず、次の文章を手がかりにしたいと思います。
「縄文時代晩期から弥生時代にかけての時期に、大陸の呉や越の人たちやその沿岸の海洋民、すなわち海人族の人たちが北九州を中心に渡来してきました。また、南方諸島からの海洋民も日本へ来て海人族と呼ばれました。その間、たびたびの渡来があり、漁労、航海運輸、土器による塩づくり、水田稲作などの技術や文化とともに、彼らの地方に伝承していた神話を持ってきました。」
なるほど、弥生時代の稲作・農耕という面につい注目が行きますが、何といっても地形からして世界で何番目かの長さの海岸線を持つ日本ですから、もっと海辺に来て住み着いた人たちが何をもたらしたか、どのような交流をしたのか、クニの形成にどのような役割を果たしたのか考えてみなくてはならないのです。
古代出雲も刈谷さんの指摘ではないですが、隠岐には海士町があり、オオクニヌシは宗像のタギリヒメを妻にしており、さらに、猪目洞窟遺跡や古浦遺跡には南海産のゴホウラ貝の腕輪をした人骨が見つかり、日御碕では「和布刈(メカリ)神事」行われますが、これとて他の地方でも行われている海人族の祭りなのです。
古代出雲でも、こうしたたくさんの海人族にまつわる風習や、文化受容が痕跡を残しています。今回は、これらを探検したいと思います。
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