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『出雲国風土記は733年にまとめられ、地名起源の伝承や地勢、産物などが郡ごとに記されています。大和朝廷が全国の60余国に作らせましたが、完本が残るのは出雲だけです。』とされている『出雲国風土記』ですが、よく考えると謎だらけのように思えます。今回は、その謎を検討しようと思います。
『風土記は和銅6年(713)、中央の命により地方各国庁にて編述された地誌である。その克明な物産・地形・伝承等の記事は、わたしたちに生きた古代の姿を息吹きつたえてくれる』とした評価で残っていますが、それに先立つ、『古事記』、『日本書紀』は、「わが国の物語、歴史」として編纂されました。
古事記は、『和銅五年(712)正月二十八日に、元明天皇に献上された、とその序に記されています。序によれば、天武天皇が「諸氏族が持っている帝紀および本辞は、もはや真実と違っていて虚偽を加えている」と聞き、その誤りを改めなかったら数年のうちに本旨がなくなるだろうから、虚偽を正して後世に伝えよう、と企画したのが始まり』です。
日本書紀30巻は、『養老4年(720)に完成した、わが国最古の勅撰の国史で、いわゆる六国史の最初に当たる歴史書である。神代から持統天皇の時代までの出来事を、漢文により編年体で記している。』ものです。
これらを並べてみると、『古事記』と『日本書紀』の完成は、それぞれ712年と、720年です。各国に風土記の編纂の命令が出たのは、713年です。そして、『出雲国風土記』の完成は、733年です。
命令が出てから、約20年の歳月があったことになります。ところが、同じく有名な『常陸国風土記』の完成は、「『常陸風土記』は養老年間(717−723)に、常陸国守であった藤原宇合によって編纂されたという説が有力です。」と指摘があるように、命令から4年〜10年の歳月で完成しています。
さらに、『播磨国風土記』は、「716年(霊亀2)新置の和泉監(いずみのげん)を川内国泉郡と記し、また715年(霊亀1)に里を改めて郷とせよという命令が出される以前の里制によっていることなどから、霊亀年間前後の時期にまとめられたものと考えられる。」との指摘があるように、これも霊亀年間は715〜716年というものですから、命令から2・3年という短い期間で完成させています。
同じように有名な風土記が、二つとも10年足らず、それなのに『出雲国風土記』は20年もかかっているのです。なぜなのでしょうか。
風土記は『官撰の地誌。詔により撰進したのは各国国庁』とありますが、『出雲国風土記』は『この風土記の巻末に〈天平五年二月丗日 勘造秋鹿郡人神宅臣全太里 国造帯意宇郡大領外正六位上勲十二等出雲臣広島〉と明記されるように、ほかの風土記と異なり、在地の国造や郡司層が自らの家に伝える伝承を筆録したもの』で、中央から派遣された「国司」が指揮をとって書かせたものではなかったのです。
それが、長い期間を要した原因なのでしょうか。しかし、この歳月の裏には、古代出雲の謎を含んだ大きな原因があったのだと考えられるのです。次回にしましょう。
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