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島根県最大の観光名所である出雲大社は、南向きの広い境内の中にどっしりと建てられています。しかし、現在よりももう少し古い時代の出雲大社の周辺を知る人の中には、見方を変えるとあまり良い立地ではないように思えるという人もいます。
私も、そのような感想を持ったことがあります。今回は、なぜ今の場所に出雲大社が造営されたのか、なぜあの型なのか、その謎を検討したいと思います。
まず、初めて出雲大社が造営されたのも、今の境内の中であることに間違いはありません。ここの境内は、『出雲大社境内遺跡』という縄文・弥生・古墳、そしてその後に至るまでの長い期間の経過を示す遺跡でもあります。ということは、ここの境内周辺が生活の場であったことも意味しています。
周辺には、「菱根本郷遺跡」という、これまた縄文時代から続いた遺跡があり、さらに、弥生時代の九州との交流を示唆する「原山遺跡」、さらには「鹿蔵山遺跡」、「南原遺跡」が出雲大社を取りまくような形の集落遺跡として発掘されています。
出雲大社の造営には、多大な労働力が必要だったと思われますが、それを確保できる周辺環境は存在していたのです。出雲大社の周辺からは少し離れますが、初期の出雲平野の農業共同体であったと考えられる、「矢野遺跡」、「中野美保遺跡」、「高浜遺跡」といった、かなり規模の大きな弥生遺跡も存在しています。
しかし、この境内自体の立地を見ると、東側面の「北島国造家」あたりまでは、「菱根池」という水海がせまり、西側面の「千家国造家」の近くは、沼地のような低湿地でした。そして、境内の両横には、境内をはさむように、裏山から流れ込む「吉野川」、「素鵞川」があります。
また、その「素鵞川」は、今の「松の参道」を東西に横切って「吉野川」と「菱根池」で合流していたと考えられます。この両川は、谷川ですので大雨の時は昭和40年代でも、「松の参道」の広場である「神苑」にあふれ出ることがよくありました。私も小さいころ、その水浸しになった「神苑」を見たことがあります。
つまり、出雲大社の境内は、「吉野川」、「素鵞川」が作った小さな扇状地であって、それを取り囲むように低湿地が広がる場所だったのです。さらに悪条件をいえば、出雲大社の正面から続く「松の参道」は、南面の小高い丘で遮られ、そのふもとは、通称「ひょうたん池」という沼があったのです。
見方をひとつ変えれば、まさに立派な出雲大社という造形物を作るのには、他にもっと良い立地の場所があっただろうに、そのようなジメジメしたところに押し込まれたような形で立地している、といっても過言ではないのです。
出雲大社は、そのあまりの高さに何度も倒れたと言い伝えられ、そのたびに新しく建て直されたとの記録があります。倒れた原因について、多くの人は、あまり高すぎて強風によって倒れたとされます。そればかりでしょうか。私は、先の出雲大社境内をはさむように流れる「吉野川」、「素鵞川」の氾濫によって、土台が不安定になり崩れたこともあったのではないかと考えています。
このような、従来とはちょっと異なる見方で、今回は、出雲大社の立地と「大社造り」について検討したいと思います。次回にしましょう。
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突然失礼します。
拝殿の辺りは古くは海だったそうですよ。
その痕跡が何十年も前に確認されているらしいです。
元国造の見解の一つでは、古代、出雲大社のある島根半島は独立した島であり、本島とは海に隔てられており、且つ、海際に大社があることを踏まえて、本殿は元は水上の建築物ではなかったかと著書で考察されています。
執筆当時、大社の鳥居の前は砂丘であることにも触れています。
そう考えると、本殿は現在のように坂を下って地下へ潜り込むような状態であったわけでなく、
鳥居の場所は陸地、そこから伸びる現参道は浅瀬から海底へ続く為に低くなり、
本殿は海面から抜け出す形であったとすれば、もしかしたら、正門の鳥居から眺められるように、出雲の山々や里を見渡せ、且つ、海洋を伝って来る船を見下ろせるような状態であったのかもしれません。
2014/3/23(日) 午前 1:47 [ みちる ]
海というより沼でした。私が小学生頃も神苑などは、土はあれども腰を下ろすとまたたく間にお尻が濡れるくらいベトベトの状態でした。また、千家家の西はちょっと雨が降るとくるぶしくらいまで水につかる有様でした。
2014/3/25(火) 午前 11:25 [ いずものしげちゃん ]