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『日本書紀』や『古事記』や各国の『風土記』には、大和政権にまつろわぬ者、つまり先住民であろうと思われる種族の話がたくさん出てきます。
少し例を挙げてみましょう。
『常陸国風土記』=「土蜘蛛(つちぐも)、国栖(くず)、八束脛(やつかはぎ)、山之佐伯(やまのさえき)、野之佐伯(ののさえき)などと呼ばれる者たちがいた。彼らは、土を掘った穴に住み、人が来ると穴に隠れ、人が去ると野原に出た。彼らは農民の隙を見て、盗みを働いたり、人殺しをした」。
『日本書紀』=「それ国巣は、その人となり、甚だ淳朴(じゅんぼく)なり。海に山の葉を取りて食う。またかえるを煮て上味とす」。
『日本書紀、神武東征伝』=「宇陀の地を出て、忍坂の大室に到着した。すると土の中から無気味なうなり声が聞こえる。しっぽのある土蜘蛛と呼ばれる民であろう」。
『日本書紀』=「昔、(葛城に)千本の足をもつ大きな土蜘蛛が住んでいた。そこで矢を射て殺した。土蜘蛛は高天彦神社のかたわらに埋め、それを蜘蛛塚という」。
『肥前国風土記』=「崇神天皇の御代に、肥後の国の益城郡朝来名の峰に、土蜘蛛の打サル(うちさる)・頸サル(くびさる)の二人があった。手下を百八十余人率いて、天皇の命令に従わず、どうしても降伏しようとしなかった」。
『摂津国風土記』=「神武天皇の御代に、偽物蜘蛛(つちぐも)がいた。この人は常に穴の中にいた。だから、卑しい名を賜って土蜘蛛という」。
『豊後国風土記』=「昔、この村に土蜘蛛の堡(むろ)ありき。石を用いずして土を持って築きけり」。
『陸奥国風土記』=「昔、神衣媛(かんみそひめ)、神石萱(かんいしかや)など八人の土蜘蛛の首領がいた。彼らは、ヤマトタケルに討伐されたが、神衣媛、神石萱の子孫だけは滅ぼされないで、八世紀まで続いている」。
こうして、いくら挙げても尽きないほどの、異形の人々が記載されています。例えば土蜘蛛を取り上げても、土に穴を掘って、その中に住み、身長は低く手足が長い人々といったように、大変未開で野蛮な人種のように書かれています。
日本書紀や風土記が書かれた時代は、大和政権が安定した頃であり、しかも、仏教や儒教などの先進した宗教が広まった時代です。しかも、宮廷や中央からの国司が主導して書かれた書物に、なぜこれほどまでに、侮辱した形で記載されなくてはならなかったのでしょうか。
さらに、これらの書物は、「鬼」についてもさげすみ、そして討伐の相手として記載しています。しかし、よく読むとこれらの先住民と「鬼」とは少し違うように思えます。
また、同じく大和政権が討伐の相手とした、「熊襲」や「隼人」や「蝦夷」などとも異なっているようにも思えます。さらに、同じ時代に書かれた『出雲国風土記』には、そうした人々は全く書かれていないのです。何故なのでしょうか。今回は、このことについて考えたいと思います。
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中国の文献(5−7世紀頃)に、例えば「琉球」「おきなは」について呼称が幾度も変化してるものがあります。これは、次の『勢力の芽』が前の『勢力』を虎視眈々と狙い逆転劇を練るための《演出》では?と、私は考えます。諸々の記述が覇者の論理にそうているよぅに、覇者の前段階でも【風評】なるもの戦略として行使していたのではと、推察してみます。如何でしょぅか。(注:先の文献相済みませんが今憶い出せません。後ほど)
2006/12/12(火) 午前 8:41
shionさん>同感です。やはり時代が変化する時には、その変化によってもっとも影響を受けるのは人々ですから、変わりそうだという予兆とか風を暗黙知の中で感じ取っていることが、様々な風評を呼ぶのではないでしょうか。
2006/12/12(火) 午前 9:10 [ shigechanizumo ]
『日本書紀』には各地の土蜘蛛が登場する。
鉱山の坑道で働く人々を土蜘蛛や穴居民と称したもので、国栖(くす)・国樔(くず)・佐伯(さへき)・八束脛(やつかはぎ)・隼人(はやと)、いずれも土蜘蛛であり穴居民を意味しており、土蜘蛛の分布地と丹生(ニュウ)・砂金・砂鉄など鉱山資源の産地が合致する。
『古事記』神武紀
伊波禮毘古は言葉に従い八咫烏(やたがらす)の後についていいと、 阿陀(あだ)で朝廷に魚などを献上する国津神と出会い、国栖 (くす)で穴居民の迎えを受けた。
『日本書紀』神武紀
高尾張邑(タカオワリムラ)に土蜘蛛(つちくも)がいた。その人態は、身丈が低く、手足が長かった。磐余彦尊(いわれひこ=後の神武天皇)の軍は葛(桂)の網を作り、罠をはって捕らえ、これを殺した。そこで邑の名を変えて葛城とした。
2012/6/23(土) 午前 5:45 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]