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斐川町で発見された、358本の銅剣は、その原材料を中国産の銅に求めるのが一般的な説のようです。しかし、島根半島などで採れる「自然銅」を原料としたのではないかとの説は、現在も根強く唱えられています。
この点に深入りすると、化学分析などの科学的見地などが欠かせませんので、それとして置いておきましょう。しかし、島根県は、石見、出雲地域ともに鉱物資源の宝庫なのです。もっとも有名なのは、砂鉄を使った製鉄と石見銀山の銀ですが、大東町などのモリブデン、そして、出雲市大社町の銅なども、実はもっと評価されて良いのではないかと考えられます。
というのも、これらの地層はグリーンタフと呼ばれ、日本海周辺の広い範囲に見られますが、たくさんの金属元素が地球内部から放出されて、それらが濃集して、数多くの鉱床が作られているからです。
ここで取り上げたいのは、出雲大社の裏山から北に広がる地域の産銅についてです。まず、大社町の史家『梶谷実さん』は、このことに付いて次のような興味深いことを述べていらっしゃいます。梶谷さんの文章は、『大社情報総合サイト 鷺銅山(上)・(下)』(http://taisha.jp/?ID=932)から引用させて頂きました。
・・・『この鷺銅山は、石見銀山のさきがけをなした古い銅山ですが、このことや場所についてもあまり知られていません。出雲大社の横を鷺浦に向かって車で十分ほど走ると、峠を下って平たんになった辺りに、右側に石垣が見えてきます。そこが鷺銅山のあったところです』・・・。
『石見銀山のさきがけをなした』というのは、石見銀山の発見より以前にすでに「鷺銅山」は採掘がはじまっていて、石見銀山の発見により、石見銀山を開発するために鷺銅山主である三島清右衛門などが派遣されたという記録によるものです。これは、「室町時代(1526年頃)」のこととされています。
この頃、石見銀山の発見者である「貿易商人・神谷寿貞(かみやじゅてい)」は、鷺銅山へ銅の買い付けのために、博多と鷺浦とを船で往来していました。そして、日本海を航行中に石見銀山発見のきっかけをつかんだとされています。
このことからすると、博多と鷺浦を船で往来するほどですから、かなりの量が採れていたのではないでしょうか。なぜなら、九州にも銅鉱山はたくさんあったはずなのに、わざわざ海路を使って出雲の鷺浦まで買い付けにきているからです。
ところが、鷺銅山がいつからそのような採掘と精錬を始めたのか、よく分かっていません。しかし、太古に生成した鉱物ですから、そうした人の手による採掘が行なわれる以前から、出雲大社の裏山のような所には、銅鉱石が眠っていたことになります。
さて、今までのことは採掘ですが、出雲大社の裏山も含め、北山山系といわれる島根半島の山中には「自然銅」の露頭があったとされています。大きなものは、牛の胴体のようなものもあったといいます。純度は高くて約97,8%ともいわれています。
自然銅の歴史は古く、次のような記載があります。・・・『自然銅はだいたい銅の含有量99パーセントの純銅です。長い年月の間に余分なものが全部空気や雨で溶けて出てしまって、純粋の銅分だけがニョキニョキとたっています。自然銅というのは地表のを取りつくしてしまったら今度は地下にある銅鉱石を掘り出すのですが、青銅器時代でもすでに10メートルほど深く掘っています。ヨーロッパの場合、スイスのあたりで深く掘っています。日本でも自然銅というのはたくさんあったと思います』・・・。次回にしましょう。
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いつも興味を持って読んでいます。銅は銅鐸とか銅剣とか古代道具に欠かせないものですよね。 日本人はどこから来たのか、日本の神(国津神、天津神)の存在の不思議さに興味を持って早何年ですが、今日は至って現代日本人、クリスマスを楽しんでいます(^^)
2006/12/24(日) 午後 4:19
madokatsubasaさん>ありがとうございます。早何年とは、すでに相当の知識をお持ちのことと思います。これからもよろしくお願いします。
2006/12/25(月) 午前 9:12 [ shigechanizumo ]