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昭和59年(1984年)に、全国最多358本の銅剣が荒神谷遺跡で発見されました。翌年には、16本の銅矛、6個の銅鐸が出土しました。12年後の平成8年(1996年)には、全国最多39個の銅鐸が加茂岩倉遺跡で発見されました。遺跡での銅鐸出土数では全国最多(それまでは滋賀県野洲町・大岩山遺跡の24個が最多)のものでした。
ところで、この二つの大発見はともに農道の工事などによって偶然発見されたものです。それまでに、このような大量の青銅器が出雲で発見されるということを予想した人は、誰一人いなかったといってよいでしょう。二つの遺跡の発見は、全国に大きな反響を呼び、数々のシンポジュウムが開かれたり、たくさんの論文や本が出版されました。
偶然の発見なのですから、荒神谷遺跡の発見の前に、加茂岩倉遺跡が発見されたということも考えられなくはありません。それはともかく、この二つの大発見についての議論は、一方は銅剣が中心で、もう一方は銅鐸であったということから、大量の青銅器の発見ということでは一致しても、かなり別々な方向で論じられているように思えます。そのことを検討しながら、その後に、私の空想と想像を述べたいと思います。
まず、荒神谷遺跡での発見のメインは、358本の銅剣です。それらが、キチンと並べて一ヶ所に埋納されていたことと、型式が出雲独特のもので「出雲型銅剣」などとも言われたことから、一気に、「古代出雲の独自性」とか「古代出雲王権・王国」などといった方向に議論の中心が向かったのです。
一方、加茂岩倉遺跡の銅鐸は、他の場所とは異なる特徴を様々に持ってはいますが、発見された銅鐸のほとんどは、型式からはすでに発見されている銅鐸と大きく異なる特徴はあまり無いともいわれています。したがって、荒神谷遺跡の銅剣のように、古代出雲のオリジナリティーを強調するような方向の議論には向かわなかったように思えます。
『加茂岩倉遺跡における埋納状況の大きな特徴として、大きな銅鐸に小さな銅鐸を納めた「入れ子」状態になっていたことがあげられる。合計13組26個が確実に入れ子状態であった。』という特徴とか、『加茂岩倉の絵画の中には、従来知られていた表現とは異なるものが多く含まれていた。10号鐸のカメは、これまでの銅鐸絵画でスッポンとされていたものとは表現が異なり、海亀と考えられるものであった。』ともいわれています。
しかし、一般人にとっては、それよりも、なぜこの地に、全国最多の銅鐸が埋められていたかとの疑問への解答が欲しくなります。
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やはり、ここに特別な何かがあったと考えたくなります。例えば、銅鐸文化圏の中心地がここにあったとか・・・
2007/7/3(火) 午前 0:39 [ mar*co1*71 ]