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播磨と産鉄の関係は、『播磨国風土記』の記述からもうかがえます。一番目立つのは、讃容郡の条に、『山の四面に十二の谷あり、みな鉄(まがね)を生ず。』と誇らしく書いてあることです。『出雲国風土記』では、産鉄に触れた場所は少なく(飯石郡・仁多郡)、そして質素に書かれています。
吉備地方でも吉備の枕詞が「真金(まがね)吹く」とされているように、産鉄に対して大変な自慢をしているのです。出雲がその頃本当に中国山地一帯の産鉄の中心だったとするのなら、『出雲国風土記』でも、もっと自慢してもよかったように思われるのです。
ところで、播磨には「天日槍(矛)(アメノヒボコ)」とオオクニヌシの別名である「葦原志挙乎命(アシハラシコヲ)」とがいたるところで争う伝承があります。代表的なものは・・・『龍野市:天日槍命が韓国より海を渡って揖保川河口にやって来た。この地を治める葦原志挙乎命(あしはらしこをのみこと)が、海中に宿を許したところ、天日槍命は剣で海水をかき混ぜ島を造って宿った。』
・・・『葦原志挙乎命は、この客の神の霊力のさかんな行為に畏れをなして、先に国を自分のものにしようと思い川をさかのぼった。その途中、小山で食事をしたがご飯粒をこぼしてしまった。そこで、ここが粒丘(いいぼおか)となり、揖保(いいぼ)の郡名がついた。この丘の小石は、みんな飯粒に似ている。』・・・というものです。
また・・・『姫路市:伊和大神と天日槍(あめのひぼこ)は大軍を率いて八千種で戦った。伊和大神は、一万の兵のために米をついた。その糠が集まって丘になったという。この丘を、糠岡という。』・・・というものもあります。
そして、最後に・・・『宍粟郡:葦原志許乎命(あしはらしこをのみこと)が天日槍命(あめのひぼこのみこと)と、この山にやって来て、それぞれが黒葛(くろかずら)3本を足につけて投げた。各地でこれまで戦いを繰り広げた両神の最後の決戦である。その時、葦原志許乎命の黒葛は、1本が但馬の気多の郡に落ち、1本は夜養の郡に落ち、1本はこの村に落ちた。天日槍命の黒葛は、皆但馬の国に落ちた。そこで、天日槍命は但馬の伊都志(いづし)に移っていった。』・・・ということになります。
この争いは、・・・『名前に「ホコ」があるように天日槍命には製鉄との関連があり、これは土着勢力と渡来系の製鉄集団の鉄を巡る争いであったと考えられている。』との指摘があります。
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山陰と山陽とでは別系列の製鉄が並立していたようですね。 日立金属「たたらのはなし」より http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0202.htm これを見ると日本独自の砂鉄製鉄は山陰の島根県安来市あたりに集中 しています。このあたりも古い製鉄遺跡がでてくるようです。山陽の 岩鉄製鉄はその後衰退し、その拠点は東北地方の岩手を中心に移って いっているみたいです。
2007/3/18(日) 午後 2:28 [ 日本海人 ]
日本海人さん>私も、日野川、法勝寺川、伯太川、飯梨川といったところのほうが古いように思います。また、山陽側はご指摘のように岩鉄製鉄と砂鉄製鉄の両方がありますね。
2007/3/19(月) 午前 9:11 [ shigechanizumo ]
飯梨川の上流「椿と野だたらの里」へ いったことがあります。あそこで食べた 蕎麦はおいしかった。
2007/4/2(月) 午前 8:56 [ 日本海人 ]
日本海人さん>飯梨川上流の布部ダム・山佐ダム・長江山・金屋子神社などはもっと観光開発されて良い所だと思います。
2007/4/2(月) 午後 1:07 [ いずものしげちゃん ]