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吉備を味方につけた大和の勢力は、吉備とともに出雲への侵攻を謀ります。ここからは、定番に近い出雲侵攻の話となりますので、別にしましょう。
それにしても、注目すべきは出雲侵攻においても、使われたルートは山間地の産鉄集団が築き上げたお互い同士を結ぶ、山間地のネットワーク、交通網だったのではないかということです。
吉備からの侵攻ルートは、西北へと北上して今の三次市あたりを通り、飯石郡の神戸川上流から攻め込むというものがあります。もうひとつは、仁多郡の斐伊川上流に入り、斐伊川沿いに攻め込むというものです。さらに、もうひとつは東から攻め込むルートで、伯耆の四十曲峠から日野川を横切り、出雲の伯太・安来へと攻め込むルートがあったとの指摘があります。
これらのルートは、まさに今まで指摘した産鉄河川を取り囲むルートなのです。そして、山間地の産鉄河川の上流で作られた砂鉄からの鉄製品を、平野部の交易拠点へと運ぶ、まさしくその交通網が、出雲侵攻に使われているのです。大和の勢力と手を結んだ吉備の勢力は、そうしたルートや交通網や産鉄集落の場所を知り抜いていたことでしょう。
こうしたことから大和の勢力は、未知の山間地の山越えや、兵力を養うための食糧の補給といった大きな困難を、意外と簡単に乗り越えられたのではないでしょうか。古代出雲を強力な国にした、山間地の「鉄の道」の存在が、出雲が大和政権の手に落ちた最大の原因とすれば、これほど皮肉なことはありません。
そうしたことも、播磨に始まった砂鉄からの製鉄によって、中国山地の産鉄河川が次々と開発され、中国山地のいたるところに産鉄集団ごとの拠点が生み出され、そしてそれらの集落や拠点は、それぞれに産鉄つながりのネットワークとして結ばれ、交流や交易を行なっていたことに基づくとすれば、播磨と出雲は、初めと終わりの歴史でつながっているといえるのではないでしょうか。
さて最後に、大和の勢力・大和政権が、ある時期に、相当な速さで統一政権あるいは倭国の統一を果たせたのも、各国への武力侵攻が山間地の「鉄の道」交通網を使って行なわれたからだという、ほとんど語られていない事実に突き当たることができたということを、このシリーズの空想の成果としたいと思います。
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なるほど、これが八俣遠呂知の神話の原形なのですね。
2007/4/8(日) 午後 0:00 [ 元町 ]
元町さん>ご訪問とコメントありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
2007/4/9(月) 午前 9:13 [ shigechanizumo ]
私は吉備は出雲と対峙していたかもしれませんが、当時の大和は出雲族がいた頃ではないでしょうか。その例としては三輪山・大物主神は出雲の神なのですが意味は「意宇(おう)の鉄(もの)の神」といういみがあったと思われます。
2007/4/12(木) 午後 8:31 [ 天津子 ]
天津子さん>次回のシリーズで、吉備と出雲の関係を取り上げますので、またコメントください。よろしくお願いします。
2007/4/13(金) 午前 9:08 [ shigechanizumo ]
出鱈目な説ですね。考古学の成果が乏しかった頃の司馬遼太郎氏のほうがいまだ出雲の評価に関しては正しいと思います。
2009/10/19(月) 午前 0:02 [ 葛城 ]
葛城さん>あまり筋のいい批判とは思えませんが・・・。
2009/10/19(月) 午前 9:02 [ いずものしげちゃん ]
鉄欠乏症だった大和へ鉄を供給していた出雲を大和が侵略するのは道理が合わない。しかも、通説では大和建国後急速に衰退したとされているか、東部出雲王朝とされる島根県安来平野は繁栄が続き、国内最大級の玉作(玉造)工場が建設されており、ここで作った玉石加工品を元手に大陸から鉄素材を輸入していたと思われる。
2009/11/23(月) 午後 0:00 [ 三刀屋人 ]
三刀屋人さん>鉄欠乏症とされていますが、実際のところ大和には見返り品がなかったのでは、・・・?
2009/11/24(火) 午前 9:14 [ shigechanizumo ]
広島の比婆山神話は古事記の記述からすると不自然ですね。やはり島根県安来市のものが安本美典氏の記述や、厳島神社の見解と一致しますよね。
2009/12/17(木) 午前 0:33 [ 奥出雲の語部 ]
出雲西部はたしかに吉備に滅ぼされたのかもしれませんが東部王朝の首都、安来あたりは奈良時代初期まで栄えていたことが考古学上分かっています。しかも出雲国造は平安遷都する直前まで出雲東部行政長官として君臨していました。
2009/12/22(火) 午後 9:22 [ 神避 ]
播磨にはスサノオに関連する言い伝えや神社が多い。つまり出雲東部の出雲族はそこに進出していたというのは見逃せない。
2019/2/16(土) 午後 0:48 [ 神宿 ]