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聖徳太子が隋に使者を遣し、「日出ずる処の天子に致す。恙なきや」との文書を渡したとの話は有名です。そしてその翌年に、隋は『文林郎裴清を遣わして倭国に使せしむ。』との文章を、『隋書倭国伝』に載せています。
しかし、その文章の続きには、なんとも不思議な王国が出てくるのです。・・・『明年、文林郎裴清を遣わして倭国に使せしむ。百済を渡り行きて竹島に至り南に済州島を望み津島国を経、遥かに大海の中にあり。また東して一支国に至り、また竹斯国(筑紫)に至り、また東して秦王国に至る。その華夏に同じ、以て夷洲となすも疑うらくは明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より東は皆倭に附属す。』・・・。
ここにある、『秦王国』とは一体何なのでしょうか。・・・『この「秦王国」について、「其の人華夏と同じ」と居住している人のことを書いているところを見ると中国系渡来人が多く住んでいた所なのではないか、と推理できます。』・・・という解釈はもっともなものですが、では、その王国はどこにあったかとなると諸説が入り乱れています。
推理好きの梅原猛先生をもってしても、・・・『秦王国という以上、秦氏の国に違いないが、秦氏は、応神帝の時に来朝した弓月(ゆみつき)君の子孫である。姓氏録はこの弓月君なるものは、秦の始皇帝の五世の孫・融通王であるとする。秦王国は、この秦氏の多くいた国に違いないが、周防(山口県東部)、豊前(福岡県の一部と大分県の一部)ともいわれるが、明らかでない。(「聖徳太子」下巻)』・・・としかされていません。
その他には、「秦王国」の所在地として、播磨などを比定する説もありますが、ある指摘では「出雲」=「秦王国」とされているのです。ここでは、そうしたことの当否や真相を検討するのではなく、古代出雲には、様々な用向きによってある特定の地域からの渡来人達が、継続的に訪れていたのではないかと空想してみることです。
そして、その渡来人たちは、特定の居留地をいくつか出雲に保有していて、まさしく初めてその居留地域を見た人には、「文林郎裴清」が、そこは「その華夏に同じ」といったように、出雲にある別国の王国のように見えたのだろうと空想したくなりました。
以前「徐福の謎」や「スクナヒコナの謎」、あるいは「アジスキタカヒコネの謎」でも書いたりしたように、出雲には渡来系の技術や文化が、あまりにも系統立った形で入ってきていると考えたのですが、その原因は、出雲には大きな特定の渡来系の居留地があったとするのが自然ではないかと思うようになったのです。
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