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今回は少し趣を変えて、2001年3月26日付けの読売新聞の記事を検討しながら、出雲と越について空想してみたいと思います。
出雲と越の関係は、オオクニヌシが越のヌナカワヒメに妻問いをしたという有名な『古事記』の記載から、様々に論じられています。そして、ヌナカワヒメは姫川あるいは糸魚川周辺の女酋ではなかったかということが、ヒスイの原産地に関連して指摘されています。
しかし、糸魚川以西の富山(越中)、石川(加賀・能登)、福井(越前)あたりにおけるオオクニヌシなど出雲系の神々の伝承と神社分布を見ると、ヌナカワヒメのような有名な姫神は地元にいないものの、こうした地域の方が、出雲と越の関係としては、むしろ濃密であるように思えるのです。
『古事記』では、オオクニヌシはこれらの地域を飛び越えてヌナカワヒメのもとに妻問いをしたように読めますが、そうではなく、越前、能登、越中を足がかりあるいは基盤として、さらに東の糸魚川周辺・信濃川周辺の越後に至ったのではないかと空想できるのです。
同じく、オオクニヌシとヌナカワヒメを結ぶヒスイ、メノウの「玉文化」を中心として「日本海文化交流」などが語られる頻度が多いのですが、それよりも注目すべきは、地味なようですがオオクニヌシをはじめとする出雲の神々の開墾の歴史、伝播といった方面から様々なことを空想してみると、出雲と越の関係の意外な面に気がつくのではないかと考えるのです。
読売新聞の記事は次のような書き出しで始まっています。
・・・『弥生末期の日本海交流ルート//婦中町と富山市にまたがる井田川・山田川合流地域の丘陵で、弥生時代終末期(3世紀前半)に築造された四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)が次々に確認されている。同墳丘墓は山陰地方が発祥地で、ほかには北陸地方にしかなく、日本海交流が行われていたことを物語る。数十年−100年後に造られる勅使塚(ちょくしづか)古墳(県指定史跡)なども存在するこの一帯は当時、「婦負王国」とでも呼べる繁栄を見せていたようだ。(木村 達矢)』・・・というものです。
キーワードが見えます。『弥生末期』、『日本海交流ルート』、『婦中町と富山市』、『四隅突出型墳丘墓』、『山陰地方が発祥地』、『日本海交流』、『婦負(ねい)王国』といった言葉です。これらを参考にしながら、次を読んでみましょう。
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