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新年の第一弾は、トンデモな空想になってしまいました。『雨・雲信仰と太陽信仰』などと聞くと、何か全く分からないでもないが、あまりこの二つが並べられたことはないと思うという人も多いでしょう。
出雲と大和の対立を、雲と太陽の対立のようだと指摘されたのは、井沢元彦氏です。確かにこの二つの関係をよく見ると、雲は太陽を隠すから、太陽にとっては邪魔な存在です。一方、雲は太陽によって霧散されますから、雲にとって太陽は邪魔な存在でしょう。
このアナロジー(類推)を、出雲と大和に適用して、太陽(大和)にとって、出雲(雲)は邪魔な存在だし、その逆も真なりとするのです。また、「新説・日本の歴史」というHPで、横浜市の井上友幸さんという方は、次のように指摘されています。
・・・『太陽を信仰する部族は「ヤマト」、「雨・雲」を信仰する部族は、「熊襲」といった。中津文彦氏によれば、北方から移動してきた民族は、「太陽信仰」が中心となり、南方から移動してきた民族は「雨・雲信仰」が中心であったとされている。』・・・。
・・・『また、「雨・雲」を信仰する人は、「雲」を信仰するという意味で「クモ」族と呼ばれた。これが、時代と場所により、「クマ」族となり、族の意味である「ソ」がついて、「クマソ」となった。古代日本は、この「ヤマト」族と「熊襲(クマソ)」族が、争ったり協調したりして、運営されてきたと中津文彦氏は見ている。』・・・。
・・・『これらの痕跡は、今の神社の形式に残っている。雨・雲信仰と太陽信仰は、一体となり、神道形式に纏められたものと思われる。神社の「しめ縄」は雲を表し、垂れ下がる「細い白紙」は雨をあらわしている。また、社殿奥の鏡が、太陽を表していることは、容易に想像できる。また、銀色や金色の御幣は、雷を表し雨信仰の一つの表現である。要するに、神社の形式は、雨・雲信仰と太陽信仰が一体となったことを表しているのである。』・・・とされています。
これらの考え方は、トンデモな考えなのでしょうか。今回は、太陽、雲、雨をキーワードに、出雲と大和の関係や、そうした方向から奥に潜んでいた古代人の考えの違いが解明できるのかということを、出雲を舞台にして空想してみたいと思います。
出雲は、自然現象の雲(出ずる雲)と結びつくのか。太陽神を中心にすえた大和の信仰を阻害したのは、雨・雲という自然現象と関係するのか・・・空想してみたいと思います。
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興味深く拝読できました。
空想それはミステリアスなんですね
文献もない ここが古代の面白さだと思っています。
有り難うございました。
2009/1/5(月) 午前 9:39
は〜なるほど、なんかつじつまが合ってます。
クマソと出雲は同じ系統てことになりますね。
2009/1/5(月) 午後 0:40
ホントに勉強になります<(_ _)>
2009/1/5(月) 午後 0:56 [ - ]
海南風さん>コメントありがとうございます。まだまだ続きますのでよろしくお願いします。
2009/1/5(月) 午後 1:30 [ shigechanizumo ]
俺さん>熊襲と出雲は、関門海峡を挟んではいるものの、元々はつながっていたのではないかと思います。そこへ、北部九州に渡来人が大勢来て割り込んだので九州中南部と石見・出雲とに分断されてしまったのではないでしょうか。
2009/1/5(月) 午後 1:34 [ shigechanizumo ]
myfarwestclubさん>励ましありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
2009/1/5(月) 午後 1:35 [ shigechanizumo ]
井上友幸さんの本はトンデモ本のレベルでウリナラファンタジー満開です
武寧王の墓からの出土品の90%も中国や日本からのものだそうです
栄山江流域には日本式の前方後円墳がいくつもありますね。
つまり百済は倭の支配下だった証拠です
新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていましたし
武寧王の墓は棺が日本のコウヤマキで作られていて、勾玉を副葬し、
中国南朝の舶来品はあっても百済製の土器はひとつもありません。
武寧王陵の木棺の材質は日本の近畿地方南部でしか産出しない高野槙(コウヤマキ)で日本製
この他、副葬品は金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土しました。
2012/6/18(月) 午後 0:47 [ タモリ ]
高句麗・百済・新羅・高麗は朝鮮人の祖先じゃありませんよ
武寧王は日本生まれの日本人(倭人)です
「391年、倭が、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させた」と書かれている。つまり4世紀頃から7世紀(白村江の戦いで敗れる)まで、朝鮮半島は和国の一部だった
百済の王族は、倭によってその婚姻が決められており、基本的には百済王の后は倭人の中から選ばれてましたから百済王は実質倭人ですよ
その百済王子は王位に付くまでは人質として倭国に来ていたそうです
子供でも倭と百済の力関係はわかりますよね
2012/6/18(月) 午後 0:52 [ タモリ ]
タモリさん>そのようにも・・・。
2012/6/19(火) 午後 2:12 [ shigechanizumo ]