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さて、ここで注目すべきは、「国造り」と「平定した国をよりよく治める」こととが区別されている点です。「国造り」とは、国土の開墾・開発ではなく、他国の平定だと読めるのです。そして、その後に「平定した国をよりよく治める」という統治行為が行われるのです。
そこから、他国の平定はオオクニヌシの荒魂がその役割を担い、その後の統治はオオクニヌシの和魂(幸魂・奇魂)が担うという二段構えになっています。「金刀比羅宮」は、国土平定後の役割をオオクニヌシ(オオモノヌシ)に期待して和魂を祀ったことになります。
この関係は、オオモノヌシが三輪山の大神神社に祀られているのとほぼ同様の関係なのです。三輪山伝承では、オオクニヌシがスクナヒコナを失い、・・・『「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らして神が出現した。その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。』・・・とされているからです。
では、「金刀比羅宮」の由緒にある、・・・『この琴平山に行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされたといわれています。』・・・との文言はどう考えたらよいのでしょうか。
まず考えなくてはならないのは、このオオクニヌシはどこから来たのかということです。出雲の主であったオオクニヌシが、出雲から四国にやって来て、琴平山を表日本の本拠地にしようとしたのでしょうか。あるいはもっと他のどこかからやって来たのでしょうか。
客観的に地形から見ると、金刀比羅宮のある場所は、まさしく瀬戸内海航路の要衝ともいえます。備讃瀬戸は、吉備、播磨、畿内への入り口ともいえるからです。ここを抑えれば、東西を往き来する瀬戸内海航路の航海権を制することもできるのです。
しかし、そのような有力な場所の一角を抑えたとされるのが、何故オオクニヌシだったとされたのでしょうか。海峡を挟んで対面する倉敷・岡山市には吉備津彦(キビツヒコ)の伝承が残っています。吉備津彦の末裔は、吉備津神社に吉備津彦を主祭神として祀り、後には大和政権と張り合うほどの在地豪族となっているのです。
そのように考えれば、備讃瀬戸の各要衝である高松・坂出・丸亀・琴平といった地域にも有力な在地豪族が出現し、その始祖を神として祀る形態があっても不思議ではないのです。しかし、何故外地の神だと考えられるオオクニヌシが中心だとされたのでしょうか。
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吉備津彦は大和に対して、敵対したいてその余裕も
無かったことと、その敵対する姿勢が四国には受け入れ
なかったことで、オオクニヌシの姿勢が受け入れられた
野ではないでしょうか?
2009/7/4(土) 午前 9:31 [ 羽木 鉄蔵 ]
藏(くら)さん>実は秘かに私もそのように・・・。
2009/7/4(土) 午前 9:35 [ shigechanizumo ]