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先般、朝日新聞の記事に、荒神谷博物館館長の藤岡大拙先生の出雲弁についてのインタビューが載っていました。その中で、藤岡先生は、出雲弁がポツンと出雲に残ったのは、『大和朝廷に敗れたので、出雲が鎖国をしたからだ。』という趣旨のことを述べていらっしゃいました。その当否は置くとして、今回は、出雲弁は古代の共通語だったという空想を書きたいと思います。
私は以前、このblogの『神々の参集』というシリーズで、次のように書きました。・・・『それにしても、出雲で会議=神議をする時に、それぞれが、それぞれの地元言葉で発言していては、とてもまともな会議はできません。もっとも、普段交易をしていることから生じた共通語があったのでしょうが、それはある意味では貿易用語という特定の用途のための用語の一群であって、微妙なニュアンスを伝える共通の話し言葉とは違ったものだったのではないでしょうか。・・・
・・・ここで、登場するのが、『出雲弁』です。会議を主宰するのは出雲の交易リーダーですから、何よりもその議長役・取りまとめ役の人の言語に注目が集まります。聞き逃したり、聞き誤ると来季の交易に支障が出るのです。出雲弁はいわゆる「ズーズー弁」といって、東北弁と共通する特徴があるとされています。・・・
・・・今日に至るまで、なぜ出雲に東北弁の特徴である「ズーズー弁」が残っているのか、様々な説があり、確定的な論証はなく謎とされています。しかし、日本海海域には、越前から越中・越後、さらに出羽地方に至るまでほぼ共通した「ズーズー弁」と、それを基盤とした「語彙・単語・語形変化」が残っています。・・・
・・・私は、東北弁が出雲に残ったのではなく、東北弁の基盤は出雲から発生したのではないかと空想しています。出雲へ参集し、そこの会議で用いられた出雲の言葉が、各地から集まった交易リーダー達によって持ち帰られ、しかも、出雲から出発した交易船の貿易用語が出雲弁で話されたことによって、はるばる東北の地域に広まったのではないでしょうか。』・・・と。http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/55395098.html
このことについて、もう一度視点を変えて空想したいと思います。というのも、上記の私の空想では、出雲弁あるいは出雲弁の系統を引く「ズーズー弁」の広がりの根拠は分かっても、では何故、今日に至るまであまり風化せずに出雲で出雲弁が話されているのか、その深層については不十分だったと思うからです。藤岡先生の「鎖国をしたからだ」というのも、その深層に迫ろうとしたものでしょう。それだけでしょうか、と空想するのです。
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当時の<シュメル語>と<日本語>の共通語には
次のようなものが確認できる。
<宮司>=<サング>、<参宮>、南九州では<グッサン>という。
<商売人>=<シヤプガル>、<人>=<グル>(アイヌ語)。
<大工>=<ナガル>、刀は片刃(カタナ)、<刃>=<ナ>、<ナガル>=<刃人>・<刃物師>だ。
<自国民>=<ウッキン>、<内君>、ウチの大切な人たち。
その長(おさ)が<大君>・<ウッキン>(南九州)。
<王>=<エン>、役(エン)の小角(オヅヌ)は修験者たちの<王>(エン)。
修験という名もシュメールに通じるが、
その額(ひたい)に着ける兜巾(ときん)も、
今もイスラエルの司祭が全く同じものを看けるし、
また耳の前に我が国古代の髪形・<ミヅラ>とよく似た特殊な髪を垂れる。
これは彼等がバビロン捕囚時代に身につけたシュメル文化の遺物で
当時のレリーフにも見られる風習。
2009/7/29(水) 午後 5:12 [ 羽木 鉄蔵 ]
イスラエル人だけのものではない。しかしこの
<ウルカギナ>王のとき、 <ウンマ>の軍勢が侵入して
<テラシュ>神殿などを襲い、 宝石貴金属を奪い放火
して焼き払った。 この神殿名も「照す」で、
南九州には寺師(てらす)姓もある。
この時以後<ウンマ>は侵略政策をとり続け、50の
都市国家を征服して、 日の出る<エラム>から
日の入る<シリヤ>(尻国(ヤ)・後(しり)国)まで
シュメル全土に君臨した。
<エラム>は沖縄発音・<イラブ>=<伊良部>、
南九州発音<エラプ>=<永良部>で、 この地名のルーツ
を物語るし、尻の反対語の頭(かしら)によって、
頭に「選ぶ」という日本語がこのシュメル語から
生まれたことも理解できる。
『参考』
JINMU(卑弥呼を攻めた神武天皇):『言語復原史学会:
加治木義博』KKロングセラーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/37383589.html
2009/7/29(水) 午後 5:17 [ 羽木 鉄蔵 ]