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『陸の道』 私は、約四年半前にこのblogの「『古代出雲と大和への道』の謎」という記事で次のように書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/16471398.html ・・・『古代出雲と大和を結ぶ経路は、大まかに3系統あったとされています。 1.大和から、保津川沿いに園部・丹波・綾部、そして丹後半島あたりの港に出て、その後は日本海沿いに船か陸路で西に向う経路。 2.大和から、今の中国縦貫道に沿った形で播磨を抜け、美作・津山・根雨といった比較的平坦な山沿いを抜け、伯耆に入り溝口あたりを通る経路。 3.船で吉備の岡山市あたりまで行き、高梁川を遡り奥出雲・飯南といったところに出る経路。 この3つのうち、1番目が本来古代出雲が交易や交流に用いたコースではないかとされています。潟湖を利用して東に向かい、丹後半島に上陸し、そこから陸路で、大和へと向ったのではないでしょうか。 2番目は陸路だけなので時間はかかるかもしれませんが、交通上は一番安全とされ、後の参勤交代の街道として松江藩が用いたことから、出雲街道とも呼ばれています。 3番目は、門脇禎二先生の『出雲の古代史』によれば、大和朝廷が吉備と結んで、出雲の服従を成功させたときのコースとされています。』・・・。 この記事は、その前提として、大和と出雲は対立的な関係だったとして、大和側から見た「出雲侵攻」の道が、どのようなものであったのかを述べたものです。大和への道、あるいは出雲への道は、中国山地の山越えが中心だったと前提しているのです。 しかし、今回、大和と出雲が未だ対立的ではなかった時、あるいは大和政権がまだ萌芽期であった時、また弥生時代においても同じだったのだろうかと考えるようになりました。というのも、出雲はそうした時代に、格別出雲より先進しているというわけでもない大和と交流をする必要があったのかという疑問が湧いたからです。 |
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必然的に、街道の寄り道は 三方向から集まる
ようにできていますね。伊勢においても、
東海道から伊勢路。関西から奈良、伊勢路、
南紀〜熊野古道、伊勢路というように、その街道に
豪族の浮き沈みも見えてきます。
楽しみにしています。 shigechanizumさん。
2010/3/21(日) 午前 7:20 [ 羽木 鉄蔵 ]
藏(くら)さん>今度もどこまでいけるやら・・・。春は空想の季節です。
2010/3/23(火) 午前 8:52 [ いずものしげちゃん ]
さ(くら)、今、横浜緋桜が満開です。
2010/3/24(水) 午前 1:28
Shionさん>松江はおとといが開花日でした。とても寒いです。
2010/3/24(水) 午後 0:52 [ shigechanizumo ]