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そして、・・・『しかしこのような伝承――天孫の建国前に大国主命で代表されるような出雲を中心とした建国があったという――伝承は、一部の史家が言うように大和朝廷の人が政治的立場で作り出したものではなく、古くから根強く伝承されていて、大和朝廷もそれを認める立場であったことは、記紀や「出雲国造神賀詞」からも疑えないのです。』・・・。

さらに、・・・『これを考古学上の年代で言えば、前期古墳時代でありますが、その時代には出雲とか、あるいは畿内などには、大国主命とか、大物主命とかいうものに象徴されるような、相当大きな国家的な勢力がすでにできあがっていたのではないか、ということが考えられるのであります。』・・・と発言されています。

しかし、江上先生の考え方にも疑問があります。
まず、出雲を・・・『いわゆる騎馬民族的なものではなくて、韓人か南鮮の倭人かはっきりしませんが農耕民的なのが来て、経済的にも発展』・・・したとされています。それだけでしょうか。もうひとつ大事なのは、出雲が日本海海域の地域に大きな影響力を持っていたという側面なのです。

そしてその影響力は、海を使った交流や交易であり、さらには国土開発や農業技術などを、そうした地域に伝播させたということです。そこには、指摘されるとおり、・・・『全国の征服統一を意識的に実行』・・・するなどという野望はなかったのです。海を使った広範囲の交流・伝播のつなぎ目が、出雲という場所だったのではないでしょうか。

荒神谷遺跡の銅矛は、明らかに北部九州からもたらされており、出雲大社東隣の「命主神社」のヒスイの大勾玉は、明らかに越(北陸)からもたらされたものです。さらに、「命主神社」で一緒に見つかった銅戈は、これまた北部九州からもたらされたものです。つまり出雲は、北部九州から越に至るまでの日本海海域の結節点だったのです。

一方、大和政権は北部九州から大阪湾に至る瀬戸内海海域を支配するようになります。私は、出雲と大和の関係は、瀬戸内海海域を支配した大和政権が、日本海海域に大きな影響力を保持していた出雲を、何とかして取り込もうとしたという推移なのではないかとも考えられると思うのです。

こうした取り込みは国土をめぐる勢力争いではなく、影響力の取り込みですから、単なる武力・暴力では達成できないのです。すなわち、穏当な方法で「譲らせる」ということが必要だったのです。

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♥No.18 『壬申の乱の謎』 関 裕二 著 2005/11/17
なぜ、「尾張氏」も、「蘇我氏」も由緒正しき「出雲」の末裔であったのに、『日本書紀』が抹殺したその理由は、滅んだ「蘇我氏」をどこの馬の骨とも知れぬ存在に見せかけ、その上で、「悪者」に仕立て上げるためだったと論じられています。

古今東西、勝てば官軍、歴史は勝者の勝手に成り勝ちなんですね。

2010/12/22(水) 午前 7:42 [ vio*etf*gh*er ]

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vio*etf*gh*erさん>あり得ることだったのでしょうね。

2010/12/22(水) 午前 8:46 [ いずものしげちゃん ]

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