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前回のシリーズで、私は、・・・『初期の大和政権は出雲をどのように考えていたのかが分かる気がするのです。』「古代出雲『青木遺跡とは』の謎(その23)」・・・としました。 今回空想するのは、大和政権とか倭国といった国内の勢力が、出雲をどのように見ていたのか、どのように考えていたのか、あるいは出雲はどのように位置付けられていたのかということではなく、海外の勢力や国が出雲をどのように見ていたのかという側面です。 海外の勢力や国々が出雲をどのように見ていたのかといっても、中国や朝鮮半島の国々の史書に「出雲」という名前が出て来ることはないのです。しかし、紀元前後に出雲が日本海海域や中国山地など西日本の本州部分の各地で、大きな影響力を持っていたことは、これまでの空想のみならず、遺跡などからも、確かに推測できるのです。 そうであれば、「魏志倭人伝」などの中国の史書や、「三国遺史」といった朝鮮半島の国々の史書に、出雲という国名が出てこなくても、そうした出雲の影響力や動向は、海外の国々も感じ取っていたはずだと思われるのです。 また一方では、出雲という国名は直接的には出てこなくても、「魏志倭人伝」における「投馬国」は、出雲ではないかという有力な説があるのです。しかし、今回「投馬国」=「出雲」という考え方に深入りをすると迷路に陥ったり、空想の趣旨がぼやけてしまうように思われるので、この論点はいったん避けておきたいと思います。 それにしても、出雲の遺跡や、出雲と隣り合った伯耆・因幡の遺跡から、かなり大量の鉄素材・鉄器が出土しているということは、それらが北部九州経由だけではなく、出雲が直接的に朝鮮半島の勢力や国々と接触していたのではないかということも推測させるのです。 また、出雲の山持遺跡や田和山遺跡から、楽浪郡の土器や硯が出土しているといったことは、中国大陸の勢力や国々とも接触していたのではないかということも推測の範囲の中に入るのです。 とすれば、出雲と接触していた朝鮮半島や中国大陸の勢力や国々が、出雲をどのように捉えていたのかは、重要な空想の対象となるのです。そしてさらに、その接触とはどのような程度のものであったのか、その内容はどのようなものであったのか、また、倭国を東アジアの情勢の中で捉えることが重要だと指摘されるように、出雲の位置づけを東アジアの情勢の中で空想するといった視点も、重要なことだとされなければならないのです。 |
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