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先日、コメントを下さった方に、年初の北朝鮮から島根県隠岐島に漂着した漁船についての感想を書きました。
この件で驚くのは、まずその漁船の船型でした。およそ日本の沿岸では見受けられないものでした(Netのさまざまな報道写真を参照ください)。よくあのような船で荒天の日本海を転覆もせず漂流できたものです。
次に思うのは、南下するリマン海流は意外と思うほど沿海州、朝鮮半島北東部から日本海海域の、出雲などの山陰海岸に物を運ぶ力を持っていたということです。このことは、渤海使節団が出雲から能登にかけてその航路を確立していたことからも伺えるのですが、現実に渤海使節団の時代よりももっと貧弱と思われるような、現代の北朝鮮の沿岸に存在する漁船が、隠岐に到着したことはとにかく驚きだということです。
それと同時に、そうであるならば、古代に当然出雲と朝鮮半島東北部との往来があったことが予想できることに確信がもてたことが重要です。
すなわち、北部九州と対面する朝鮮半島南部まで中国大陸の騎馬系の集団が南下し、その集団やグループが北部九州に到着して一段落し、その後瀬戸内海海域や日本海海域に東進したという構図を待たなくても、出雲や山陰、北陸海岸には夫余などのツングース系あるいは北方騎馬民族の系統の集団やグループが、直接日本海を渡って到着していたということが、今回のことで、すんなりと受け入れられるのです。
さらに先日、北朝鮮の軍服を着た漂着遺体が鳥取県の海岸で発見されたり、島根半島で船から転落した人の遺体が10日あるいは2週間ほどで京丹後市の海岸に漂着して発見されたというニュースを見ると、朝鮮半島北部から、山陰海岸そして越に至る半円状の海のルートが推測できるのです。
朝鮮半島の中でも、高句麗、さらにその北の地域と出雲との関係を、もっと見直す時期に来ていると思います。
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ななおさん>さらに私は、このblogでは深く言及していませんが、列島内での言葉の問題もあったと思うのです。朝鮮半島東北部の言葉は、中国の史書によると一部了解不能な言葉を使う種族がいたとされています。北部九州から瀬戸内にいたるコースの言葉と、日本海海域の言葉にはある意味で大きな違いがあったのではないかと思うのです。そのことは改めて空想したいと思っています。
2012/1/19(木) 午前 10:58 [ shigechanizumo ]
なおさん>少し言葉の問題について空想していることを述べたいと思います。出雲を古代における日本海海域の中継地、あるいは基幹港だったとすると、出雲は、交易に使われる言葉と、それに伴う航海に使う言葉を握っていたとも考えられます。そしてこれらの場面で使われる言葉は、今日でも同じですが、非常に共通性を重んじた形で用いられます。地域地域でそうした言葉が異なると大きな不便や危険が伴うからです。出雲と交流し交易を行っていた日本海海域の各地の集団や人たちは、出雲の語彙や表現を取り入れていたと思うのです。やがてそこから、信仰や風習も出雲の影響を受けるようになったと空想するのです。
2012/1/19(木) 午後 3:39 [ shigechanizumo ]
なおさん>もう少し続けます。語彙や表現といいましたが、出雲弁の特徴に、指示語の豊富さという面が見られます。具体的な単語は何も発せずに、「あげ、こげ、そげ、どげ」といった言葉のやり取りで意思疎通ができるなどとも言われています。このことが示唆するのは、単語でのやりとりではその意味内容を理解する必要があるのですが、指示語でのやり取りはその指示に従えばよいという意味において共通語あるいはボディランゲージとして通用するという利便性があるからです。ではどうしてそのようなことが必要だったのかといえば、広域的な交流や交易を円満・円滑に行うための知恵だったからだということができるのです。
2012/1/19(木) 午後 3:54 [ shigechanizumo ]
なおさん>少し例を挙げましょう。自転車が壊れていたとします。「こらどげだ(これはどうしたことだ)」、「こげなこと、どげすーだ(こんなようになっているがどのようにすればよいのか)」、「どげんでもならん(どうしようもない)」、「そげだね(そうですね)」・・・・。
2012/1/19(木) 午後 4:01 [ shigechanizumo ]
管理人さん「アメノヒボコ、ツヌガアラシトの伝承は確かに人代のこととして語られていますが、アメノヒボコは、オオクニヌシと播磨で争っています。」
>すいません、この意味が分かりません。おそらく、播磨国風土記にある葦原志許乎命を大国主命と解釈しているのではないでしょうか?しかしながら、大国主命というのは通称が多すぎて、中には別神だったのに、いつのまにか、大国主命と同神と解釈・習合されたものが多くて、そこんとこを慎重に見極める必要があると思います。
2012/1/19(木) 午後 7:59 [ ななお ]
管理人さん>『播磨国風土記』によると、本文も伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神であると思わせる構成で、伊和神社周辺は豪族・伊和氏の根拠地であったと考えられ、伊和氏が祭祀したとみられている。おそらく、アメノヒボコが争った相手は、出雲系を自称する伊和氏で、この豪族が祭っていたのが大国主命だっただけだと思います。よって、アメノヒボコは神代ではなく、欠史八代の時代に、出雲系の伊和氏と争いがあったのでしょう。
2012/1/19(木) 午後 8:06 [ ななお ]
管理人さん「北部九州から瀬戸内にいたるコースの言葉と、日本海海域の言葉にはある意味で大きな違いがあったのではないかと思うのです。そのことは改めて空想したいと思っています。」
>両者には違いもあったのでしょうが、基本的に同じ倭語の範囲だと思います。方言の違いでしょうね。日本海側に関しては、出雲中心の連合があったのでしょう。実際に、出雲の大国主命の縁結びの話は、日本海沿岸部を中心に存在していますから。大国主命の息子や娘が政略結婚で同盟していたのでしょう。
2012/1/19(木) 午後 8:13 [ ななお ]
管理人さん>そんな大国主命の政略結婚の相手の中に、近畿王の天火明命も含まれていました。播磨国風土記、旧事本紀を見ると分かるのですが、天火明命の妃は天道日女命といい、彼女は大国主命の王女でした。つまり、大国主命の義理の息子になっていたのが、天火明命であり、出雲国譲りでは、大国主命は義理の息子に降伏したのでしょう。出雲国譲りの時の天津神のリーダーは天火明命であり、彼こそがヤマト朝廷の初代天皇として記紀に記載しなきゃいけない人物だったと思われます。しかし、現在の天皇家の先祖は、ニニギ命であり、彼は出雲国譲りの直後、兄の天火明命の命令で九州高千穂に飛ばされたのでしょう。このことが、皇室にとっての最大のタブーなのです。
2012/1/19(木) 午後 8:19 [ ななお ]
ななおさん>出雲は縄文国家だったという説がありますね。とすれば出雲の言葉も劣等内の他の縄文の血を引く人々の言葉もほぼ同じと考えられますね。渡井が言いたいのは、そこから特化した方向で出雲の言葉が広範囲に広がったのではないかということです。ある王に王女として娘などを差し出すのは、降服のしるしだとされています。そこはどうお考えでしょうか。
2012/1/20(金) 午後 1:12 [ shigechanizumo ]
管理人さん>出雲もヤマトも縄文か弥生と言えば、弥生でしょうね。越だろうが、関東だろうが、筑紫だろうが、吉備だろうが、全部、弥生国家ですね。というか、縄文と弥生という区別自体、意味がないと思います。そういう風に考えたら、すべて縄文国家でもあり弥生国家でもある。
最近では、縄文も弥生も農耕時代だったことが分かっており、土器の種類で農耕と非農耕の区別はつかなくなっています。弥生土器か縄文土器か区別ができない土器も多く発見されています。農耕の開始時期で見たら、紀元前4000年前ぐらいにのは陸稲が開始され、紀元前1000前ぐらいには水稲が開始されたことになっている。出雲国譲りとかそういうのがあったのは、紀元前1世紀から紀元後1世紀くらいの話で、農耕が開始されて4000年、水稲が開始されて1000年、時が経過した話であり、縄文と弥生の区別などないと思います。
2012/1/20(金) 午後 7:28 [ ななお ]
管理人さん「ある王に王女として娘などを差し出すのは、降服のしるしだとされています。」
>そんなことないと思いますよ。そういうのは、時と場合によると思います。自分よりも格上の貴族に娘を嫁がせる場合もあるし、格下に娘を嫁がせることもある。例えば、戦国時代、徳川家康の娘たちの嫁ぎ先みても、様々ですよ。
2012/1/20(金) 午後 7:33 [ ななお ]
管理人さん>なぜ、日本の皇室が出雲の神様を大切にするのかというと、ヤマト王朝の前身が出雲国譲りにより、倭王として君臨できたからだと思います。前王朝の出雲から禅譲をうけたという意識が強かったんでしょう。
しかしながら、日本の皇室にとって、そのことは微妙に都合が悪かった。もし、そうならば、出雲国譲りの直後に、ヤマト王朝の初代天皇とされる人物が誕生していたことになる。でも、記紀によると、出雲国譲りの直後の記述は、非常に曖昧で、このあたりは神話とされ、ニニギ命の天孫降臨、日向三代とへて、神武東征までまって、そこで初めて、初代天皇とされるイワレ彦(神武天皇)が誕生したことになる。この辺が、日本の皇室の最大のタブーなんです。管理人さん、なぜだか分かりますか?
2012/1/21(土) 午後 5:47 [ ななお ]
管理人さん>ようするに、ヤマト王朝は出雲国譲りによって天下を統一した。そこで、当然、初代天皇とされる人物が誕生したんでしょう。しかし、その人物は、現在の皇室の祖先のニニギ命ではなかった。
では、誰だったのかというと、それは、ニニギ命の兄とされている天火明命だったこと。この人こそ、ヤマト王朝の始まりの人で、彼は通称を天照国照彦といわれ、まさに出雲国譲りによって、天津世界と国津世界を統合した人物だった。そして、播磨国風土記や旧事本紀の記述からも分かるとおり、天火明命は、出雲の大国主命の娘婿(義理の息子)でもあった。つまり、出雲国譲りは、出雲からヤマトへの母系継承でもあた。
こういう風に考えたときに、建国当初は、九州高千穂へ飛ばされたニニギ命の後胤である天皇家の正統性が微妙に揺らぐということです。
2012/1/21(土) 午後 5:59 [ ななお ]
ななおさん>ななおさんのように考えると、オオクニヌシは、特定の神(人物)のようになると思いますが、私は固有名詞ではなく、オオクニ魂を奉じていた複数の年代にわたる複数の人物、あるいは複数の集団の総称のように思えるのですが・・・・。
2012/1/26(木) 午前 11:46 [ shigechanizumo ]
管理人さん>「大国主」という名前自体は、個人名というよりも、通称みたいなもんでしょうね。たとえば、中世の人物に例えるのなら、源頼朝や、北条時頼という個人名ではなく、「鎌倉殿」だという通称みたいなもんだと思います。そういう風に考えたら、大国主は何代かいたかもしれません。
しかしながら、出雲国譲りの時に、最後に大国主といわれた出雲王の娘が、高天王(御所市高天にいた王)の火明命に嫁いでおり、両者は義理の父子の関係にあり、結果的に、大国主は娘婿に降伏し、そこから母系継承みたいな感じになったのでは?と思います。
2012/1/27(金) 午後 11:39 [ ななお ]
管理人さん>しかしながら、その最後の出雲王朝の王の大国主が国譲りしてからも、大国主が別の姿をして何度も登場します、記紀や風土記などによると。大物主という名前だったり、葦原志許乎命・伊和大神だったり。大物主なんてのは、古事記なんか見たら、大国主とは別神として登場していますし、どうも三輪山の神格化みたいだったり、また、正体がみえなく、夜にヘビの姿をして出てきたりします。それも、何代にもわたって登場する。この大物主というのは、実在の人物ではなく、ただ単に、ヤマトの人が三輪山の神様のことを、そのように呼んで祀っていただけだと思いますし、風土記の葦原志許乎命とかの話は、この地方の伊和大神を祭っていた伊和氏が、大国主の後胤を主張する豪族だったので、その表れでしょう。
2012/1/27(金) 午後 11:48 [ ななお ]
管理人さん>私の考えだと、卑弥呼はヤマトトトヒモモソ媛命であり、狗奴国王の卑弥弓呼とは許乃國の国主だった武埴安彦命であり、魏志倭人伝の西暦240年代の記述は、日本書紀の崇神10年前後の記述のことを書いているだけだと思います。
モモソ媛命も武埴安彦命も、皇室の欠史八代の終盤の系図に出てくる人物ですから、この人物らが西暦3世紀前半の人物だとすると、時系列で見たら、火明命やニニギ命の時代、つまり出雲国譲りが行われたのは、西暦前1世紀から西暦後1世紀だと推測します。
2012/1/29(日) 午前 0:35 [ ななお ]
管理人さん>出雲やヤマトの系図を見たら分かるのですが、皇室の事実上の最初の先祖は天忍穂耳命であり、彼は高木神(=高木の領主=現・御所市高天周辺の領主、大伴氏らの先祖)の娘との間に、天火明命とニニギ命という子供をもうけます。
そのうち、ニニギ命は、出雲国譲りの直後、九州高千穂に飛ばされる。このニニギ命がイワレ彦(神武天皇)の曽祖父にあたり、現在の皇室の祖先にあたる。
一方、天火明命という子供がおり、記紀や旧事本紀によると、彼は通称を天照国照彦と呼びます。これは、天津と国津の両方の支配者という意味であり、出雲国譲りの立役者だと暗示している。実際に、播磨国風土記や旧事本紀の記述を見れば、出雲の大国主命は、義理の息子(娘婿)だった天火明命に降参する記述が出てくる。出雲国譲りを実現させ、最初に畿内の初代倭王に就任したのは、この天火明命だった可能性が高いと思います。
2012/1/29(日) 午前 0:52 [ ななお ]
近いところで、蒙古襲来という歴史もありますよね。
今年は日本書紀で日本が沸き返ることを望みたいです。
2012/1/31(火) 午前 11:15 [ 羽木 鉄蔵 ]
藏(くら)さん>お久しぶりです。
2012/2/1(水) 午前 10:19 [ shige2525kawa ]