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オオクニヌシは、多くの別名を持っているとされています。
『古事記』では、・・・『大国主神(オオクニヌシノカミ)、大穴牟遅命(オオナムチノミコト)、葦原醜男神(アシハラシコオノカミ)、八千矛神(ヤチホコノカミ)、宇都志国玉神・顯国魂神(ウツシクニタマノカミ)』
『日本書紀』では、古事記に出てくる名前に加えて『大物主神(オオモノヌシノカミ)、大国玉神(オオクニタマノカミ)』とされています。
この他に、古代の文献では『大已貴神、大地主神、大国魂神(古語拾遺)、国作之大神(延喜式)、国堅大神(播磨国風土記)』といった名前でも登場します。では、『出雲国風土記』に、そのような多彩な名前が使われているのでしょうか。そうではないのです。
『出雲国風土記』では、『所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)、所造天下大神大穴持命(アメノシタツクラシシオオカミオオナモチノミコト)、大神大穴持命(オオカミオオナモチノミコト)、大国魂命(オオクニタマノミコト・飯梨郷)』としてしか登場しないのです。
では、オオクニヌシとされる神の『出雲国風土記』以外での別名とは、いったい何なのでしょうか。これについては、たくさんの見解がありますが、ここではひとつの興味深い見方を紹介したいと思います。
オオクニヌシの別名にはそれぞれの意味があり、それは古代社会の発展と関係するというのです。その流れとは、次のようなものです。
大穴持命―→葦原醜男神―→八千矛神―→国作之大神・国堅大神―→大国魂神―→所造天下大神、という順序に意味があるというのです。
石母田正先生は、『神話と文学』(岩波現代文庫)という著書の中で、次のように書いていらっしゃいます。
・・・『『出雲国風土記』等がこの神を「大穴持」と記していることから推測して、アナは「穴」の意味に解してよく、『万葉集』にみえる「大汝少彦名のいましけむ志都の石室(いわや)は幾代経ぬらむ」によれば、この神は石室すなわち洞窟に住む神と考えられていたことも参考とすべきである。地霊の神格化した神の住処として洞穴はふさわしい場所のひとつであろう。』・・・とされています。
つまり、大穴持命とは、洞窟に住む地霊の神であり、・・・『古代人の意識のなかでは、国作りの神としてのオホナムチが、その一側面として、地の神、洞窟に住む神、山や丘の創造神としての性格を失わなかった。』・・・とされています。
しかし、山や丘が創造されたとしても、それはただの自然であり、人々にとってはそこが開拓され、豊かな生産物を生み出す大地とされなければなりません。そこで登場するのが、「葦原醜男神」とされます。
これについて石母田先生は、・・・『オオナムチの別名とされるアシハラシコヲも呪力をもつ杖を地に立てて清水を湧かせ、国占めをし、アメノヒボコと谷をうばい合い、土地を争って戦う神である。アシハラシコヲの意味が、「剛強な男」であろうが、「醜い男」の意味であろうが、いずれにせよ土地を占拠し、開拓した粗野な族長の面影を伝えていることはたしかであろう。』・・・とされています。
さて、次に登場するのが「八千矛神」です。土地が開拓され、それぞれの地域が少しづつまとまっていく際には、近隣との争いごとが付きものです。その際に活躍し、勝利したのが多くの武器を持った戦いの神だったのです。
こうして、国をまとめた神が、まず「国作之大神・国堅大神」とされ、さらに大きくそれぞれの国をまとめた神が「大国魂神―→所造天下大神」とされて崇(あが)められたと言うことになるのです。
以上からすると、『出雲国風土記』が、多くの別名は載せず、「大穴持命(オオナモチノミコト)と所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)」を、オオクニヌシだとしたのは、途中の神をのぞき、始まりの神と、終わりの神こそ大事な神だとして扱ったということを示すのです。
では、途中の神も出雲にいたのでしょうか。『出雲国風土記』には出てきませんが、「葦原醜男神」について、『古事記』は次の記事を載せています。垂仁天皇の皇子であるホムチワケが出雲大神を参拝した帰りがけに、斐伊川の河口付近(斐川町出西)で山のような青葉のかたまりを見て・・・『もしかしたら、出雲の石クマ之曽宮に鎮まりますアシハラシコオノ大神を祭っている神主の祭場ではないだろうか』・・・と言ったとされています。
さらに、その近くの荒神谷遺跡からは、358本の銅剣が発見されました。これらこそ、オオクニヌシの別名「葦原醜男神」も、「八千矛神」も出雲(『出雲国風土記』の「出雲郡」・斐川地域)にいたことの証明なのです。
さて、私は前回、オオクニヌシの本拠地は仏経山から大黒山へと連なる斐川地域だったのではないかとしました。今回のことから、次のようにまとめることが出来るのではないでしょうか。
斐川地域には、葦の生い茂る広大な大地が広がっていました。その大地には、地霊である「大穴持命」がいたのです。葦の生い茂る大地を切り開き水稲(瑞穂)が稔る平野にしたのが、仏経山あたりに祭られる事になった「葦原醜男神」だったのです。そして、切り開かれた平野とそこに住む人々を守ったのが、荒神谷遺跡に象徴される「八千矛神」だったのです。
やがて安定した斐川地域には「国作之大神・国堅大神」が出現し、斐川を中心にさらに大きな出雲となった時に、それらの神々は「大国魂神―→所造天下大神」として人々の崇敬を集める統合神とされたのだと思うのです。
最後に、これらの神々を祭っていた司祭(神主)は、どのような司祭だったのでしょうか。現在、大国主命を祭っているのは出雲国造家ですが、その祖は高天原から送り込まれた天穂日命(アメノホヒノミコト)とされています。しかし、地域の神は地域の代表である神主が祭るのが普通です。
『古事記』に不思議な記載があります。先の、垂仁天皇の皇子であるホムチワケが出雲大神を参拝した帰りがけのことですが、そこには、「出雲国造の祖、名は岐比佐都美(キヒサツミ)青葉の山を飾りて」とあるのです。岐比佐都美(キヒサツミ)は、斐川の神主・祝(はふり)とされています。
この岐比佐都美(キヒサツミ)と『出雲国風土記』「出雲郡」に出てくる「曽支能夜の社に坐す、伎比佐加美高日子命(キヒサカミタカヒコノミコト)」が同じ神だとすれば、まさにオオクニヌシの本拠地は斐川地域であり、地元斐川の司祭(出雲国造の祖)に祭られていたことになるのです。
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