いずものこころ

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・・・奈良県桜井市の記事に、次のようなものがあります。・・・『三輪山南東(初瀬の西方)には出雲という地名が残り、出雲国に出自をもつ野見宿禰(ノミノスクネ)の伝承地でもある。また狭井川北方にも「出雲屋敷」という地名が伝承され、さらに三輪山北西にはかつて「出雲荘」という荘園があった。』・・・。

野見宿禰の伝承で最も有名なのは、・・・『垂仁天皇の命により、当麻蹴速(タイマノケハヤ)と角力(日本書紀では捔力)で互いに蹴り合って腰を踏み折って勝ち、当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えられ、朝廷に仕えました。』・・・という伝承でしょう。ここから、野見宿禰は相撲の祖とされているのです。両国国技館の近くには「野見宿禰神社」があります。

また、・・・『野見宿禰は、出雲から100人の土器製作の工人を大和に連れてきて、垂仁天皇に、殉死の代わりに埴輪を埋めるよう進言し実現させた人。』・・・という話も有名です。ここから、野見宿禰は土師氏の祖とされています。その後、土師氏はいくつかに別れ有能な人々を輩出(はいしゅつ)しますが、菅原道真もその流れ、つまり野見宿禰の子孫とされています。

野見宿禰が本拠地としたところは、大和の桜井市あたりだとされています。桜井市には、オオクニヌシの和魂(ニギタマ)を祭る大三輪(大神)神社があり、オオクニヌシは大和の神奈備山である三輪山に鎮座しているとされています。

この野見宿禰とはどういう人だったのかというと、『出雲国造の始祖天穂日(アメノホヒ)命の14世の子孫である』と伝えられています。つまり、野見宿禰は、オオクニヌシを祭る出雲国造の子孫だとされています。とすれば、菅原道真も出雲国造の子孫であることになります。千家家の神楽殿の後ろには天満宮があり、7月には天神祭というお祭りがあるのもうなずけるのです。

また、注目すべきは、播磨が出雲と大和を結ぶ古道の通り道だったことは、「龍野神社の社域に野見宿禰の塚がある。播磨國風土記によれば、この地で野見宿禰が没し、出雲人達が、龍野神社のある的場山中に揖保川から人を連ねて石を運び宿禰の塚を築いたという。出雲人が野に立つ−立つ野−「龍野」、という地名由来である。」と指摘されることから分かります。
つまり、野見宿禰は出雲国から垂仁天皇に召され大和に土地を得たばかりではなく、播磨を通って出雲と大和を行き来していたのです。

さて、大事なことは、野見宿禰が活躍したのは垂仁天皇の時代だということです。垂仁天皇と出雲のかかわりは、天皇の息子のホムチワケ皇子が大きくなっても物が言えず、天皇が皇子を出雲大社に参拝させたところ、その帰りに斐川の求院あたりで、白鳥を見て物が言えるようになったということです。そのお礼に、垂仁天皇は、出雲大社の大修繕を命じたとされています。

垂仁天皇が野見宿禰を大和に招いたのは、出雲に力持ちがいると聞いて当麻蹴速(タイマノケハヤ)と力くらべをさせようといった単純なものではなく、もっと深い理由があったと考えられるのです。

つまり、大和と敵対したはずの出雲の一員の野見宿禰が、大和に招かれ、所領をもらい、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、土師氏は代々天皇の葬儀を司さどったとされる伝承は、野見宿禰が優秀だったと言うことだけではなく、出雲がいかに有力で優秀な国であり、大和は、埴輪作りのみならず、神祭りや、葬礼などといった出雲の文化を野見宿禰をつうじて受け入れたということではないでしょうか。

野見宿禰が支配していたのは、現在も「野見野(ぬみぬ)」という地名が残る飯南町あたりではなかったかとされています。


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