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前回、スサノヲの御子神の話をしましたが、『出雲国風土記』に出てくる御子神と『古事記・日本書紀』に出てくる御子神とは全く一致しないとお話ししました。

では、改めて『古事記・日本書紀』には、御子神はどのように出てくるのでしょうか。

 愼本書紀』の「一書(あるふみ)」には、『五十猛(イソタケル)命は、父神(スサノヲ)と天降るとき、樹木の種を持って降りたが、それを韓国(からくに)には植えず、すべて我が国土に植えたので大八洲はどこも青々と繁茂した山々を見ることができた』とあります。
△気蕕吠未痢岼貊顱廚任蓮△茲蟠饌療になり、『須佐之男(スサノヲ)命が「髭を抜いて散らすとそれが杉となり」、「胸毛を抜いて散らすと檜となり」、「尻の毛は槙に、眉毛は楠となった」。そこで「杉と楠は船を、檜は宮殿を、槙は死者を葬る棺の材料とせよ」と教えた』とあります。
これらの話も、全くその木材の用途の適切さといい、今の私たちにも教えているようにも見えることです。少なくとも『神代の巻』に書かれていることが、これだけ現実味を帯びていることは不思議としか言いようがありません。

『日本書紀』の一書では、高天原から追放されたスサノヲは、新羅のソシモリに降り、「私はここには居たくない。」と言い子神の五十猛(イソタケル)命と妹神(ツマズ姫、オオヤツ姫)と一緒に出雲に渡ったとされ、各地にある「韓国(からくに)神社」や「韓(から)イタテ神社」といった神社にスサノヲやイソタケルが祀られていたりしていて、「韓」の名のつくところに深い影を落としています。
い気蕕法◆屮好機廚箸いμ召髻嶌重粥廚箸いΔ茲Δ鵬鮗瓩垢襪函▲好汽離鬚抜愀犬垢詬諭垢平声厂召簔鰐召法◆屮好機廖Α屮好」・「スゲ」・「スカ」といったものがあり、それは、製鉄・産鉄に関わるのではないか、木そのために植えたのではないかとの推測が成り立つのです。
ダ重粥産鉄といえば、当時日本列島にはその技術はなく、朝鮮半島から持ち込まれた技術です。そうした技術者集団が信奉していたのが、スサノヲやその御子神ではなかったかとも考えられるのです。

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スサノヲの御子神が『出雲国風土記』に出てくるのを網羅し、その地名と、そこで祭神とされている神社をあげると、次のようになります。

青幡佐久佐日古命(アオハタサクサヒコ): 意宇郡大草郷(八重垣神社)、大原郡高朝山 。
都留支日子命(ツルギヒコ): 島根郡山口郷 (布自伎美神社)。
国忍別命(クニオシワケ):島根郡方結郷 (方結神社)。
磐坂日子命(イワサカヒコ): 秋鹿郡恵曇郷(恵曇神社)。
衝桙等乎而留比古命(ツキホコトオルヒコ): 秋鹿郡多太郷 (多太神社)。
八野若日女命(ヤノノワカヒメ): 出雲郡八野郷(八野神社)。
和加須世理比売命(ワカスセリヒメ):神門郡滑狭郷(那売佐神社)。

ところで、スサノヲは京都の八坂神社の主祭神ともされています。八坂神社には、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)とともに、八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)が祀られています(他に「御同座:神大市比売命・佐美良比売命」、「傍御座:稲田宮主須賀之八耳神」)。

では、ここでの「八柱御子神」は、どのような御子神かといえば、・・・『八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命』・・・だとされているのです。『出雲国風土記』に出てくる御子神と比べると、「須勢理毘売命」が「和加須世理比売命」と同一ではないかと推測されるのですが、他の七柱は全く重ならないのです。

実は、この「和加須世理比売命」を「須勢理毘売命」とは同一ではないとすると、『出雲国風土記』に出てくる御子神の全てが、『古事記』・『日本書紀』では出て来ない御子神たちだということになってしまうのです。それとは反対に、八坂神社の八柱御子神は、すべて『古事記』・『日本書紀』のいずれかに登場する御子神なのです。

さらに、『古事記』・『日本書紀』では、八坂神社の「八柱御子神」の他にも、アマテラスとの誓約(ウケイ)の時に生まれたとされる、「タギリヒメ」、「タギツヒメ」、「イチキシマヒメ」の宗像三女神なども、スサノヲの御子神とされ、「オオクニヌシ」さえも御子神とされているのです。
なぜこのような違いが出てくるのでしょうか。かといって、どれが正しくてどれが間違いだなどと言っていても始まりません。どこでどうなったのかを空想したいと思うのです。

ここで不思議なことがあります。『出雲国風土記』には出て来ない御子神で、『古事記』・『日本書紀』あるいは八坂神社の八柱御子神に出てくる御子神が、出雲の神社にも祭神として祀られていることです。

しかもその御子神は、『出雲国風土記』にしか出て来ない御子神と一緒に祀られたりしているのです。一番分かりやすいのは、「八(矢)野神社」に祀られている「大歳(年)神」です。この御子神は、・・・『大年神(おおとしがみ)は素戔嗚神と神大市姫神(大山祇神の娘)との間の子で、稲荷神社の御祭神である宇迦之御魂神の兄』・・・とされています。

この御子神が、『出雲国風土記』には出て来ないのに、「八野若日女命」を主祭神とする「八野神社」の相殿に祀られているのです。もし、『出雲国風土記』、『古事記』・『日本書紀』を合体させれば、この御子神は姉弟神となるのですから、その二神が同じ神社に祀られていても不思議ではありません。また逆に、『出雲国風土記』に出て来てもよさそうです。

「揖夜神社」を見てみると、この神社の主祭神は、「伊弉冉命、大己貴命、少彦名命、事代主命」ですが、境内式内社には「五十猛命」が祀られています。また、出雲大社境外摂社の「大歳社」には「大歳(年)神」が単独で祀られています。

このようなこと、すなわち・・・『出雲国風土記』には出て来ない御子神で、『古事記』・『日本書紀』あるいは八坂神社の八柱御子神に出てくる御子神が、出雲の神社にも祀られている』・・・ということは何を意味しているのでしょうか。

ご承知のように、『出雲国風土記』の成立は733年ですから、『古事記』の712年、『日本書紀』の720年の成立の後のことです。『古事記』・『日本書紀』に、スサノヲの御子神だと明記されている神々がいるのに、なぜ『出雲国風土記』は、それらの御子神たちを登場させなかったのでしょうか。

ここまでで、いくつかのことが考えられます。

まず、スサノヲもイナタヒメだけが妻神ではなく、複数の妻神がいたことになります。まず挙げられるのが、出雲で一緒に宮を構えたイナタヒメです。.ぅ淵織劵瓩魯好札螢劵瓠平楡理毘売命)と、ヤシマジヌミノカミ(八嶋士奴美神)を生んだことになっています。

次に、大年神と宇迦之御魂神を生んだ、神大市姫神(カミオオイチヒメノミコト)がいることになります。

ところが、8渊縮埒澄大屋比売神、抓津比売神とされる兄妹神は、スサノヲと誰との間の御子神なのかはっきりしません。

さらに、ぁ惱弍盛馼土記』にだけ登場する御子神たちも、「須作能乎の命の御子」などと記載されるだけで、スサノヲと誰との間の御子神なのかはっきりしません。

いわんや、ゥ▲泪謄薀垢肇好汽離鬚痢崚靴琉族蓮廚任寮戚鵑虜櫃法▲好汽離鬚侶から生まれたとされるタギリヒメ、タギツヒメ、イチキシマヒメの宗像三女神は、そもそも母神という存在があるのか無いのかさえ分からないのです。剣から生まれたのですから。

ただ、何はともあれ御子神たちは、少なくともこれら五つの系統に分かれることになるのです。ところが、『出雲国風土記』は、出雲に残されたひとつの系統い靴記載していないのです(それについてもひとつの系統なのか、またそれぞれに別々の母神がいたのか判然としないのですが)。しかも、スサノヲの御子神であるにもかかわらず、これらの御子神が、出雲以外の地域において祀られているということはないのです。

そこから二つの考えが出されているのです。ひとつは、『出雲国風土記』に出てくるスサノヲは、単なる出雲の地方神のひとつであり、名前は似ていても『古事記』・『日本書紀』に出てくるスサノヲとは別の神だというものです。

もうひとつは、『出雲国風土記』のスサノヲと、『古事記』・『日本書紀』は同じ神だけれども、『古事記』・『日本書紀』は、そのスサノヲを創作にも近い形で大げさに取り上げたというものです。

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◎四隅突出墳丘墓の分布と出雲の神々の伝承が一致する?

富山県山田村の牛岳山伝承は、『山田村史』に寛文八年「越中一ノ宮伝記」の伝承として・・・『牛嶽(岳)は昔、久和崎山と呼んでいたが、悪者が多く住み農民を苦しめたので、国造神大国主命が牛に乗って登り、悪者どもを平定したので牛嶽と呼ぶようになった。』・・・とあります。

同じく富山県の『井波町史』の「高瀬神社社誌」の伝承として・・・『在昔、大己貴命北陸御経営の時、己命の守り神を此処に祀り置き給いて、やがて此の地方を平治し給ひ、国成り竟(お)えて、最後に自らの御魂をも鎮め置き給いて、国魂神となし、出雲へ帰り給ひしと云う』・・・とあります。

福井県若狭町にある闇見神社の伝承として・・・『三十三間山東側の山腹にある大池に大蛇(オロチ)が住みつき、垂仁天皇の世に大暴れ。近江・美濃・越・若狭と荒らし回り、万民大いに弱る。ところがある時、雷鳴しきりにして川の流れが赤く血と変わり、黒雲は一転して青雲になる。』・・・

・・・『それは、出雲で殺されたヤマタノオロチの霊魂が雷の気となって年を経、その邪気がこの地に生じて国の災いとなったのを、スサノヲとイナダヒメの両神が再び示現。くだんのオロチを退治されたからだという。』・・・

・・『そして、スサノヲはオロチを殺した剣を投げ上げ、落ちたところに岩剣(イワツルギ)大明神=剣神をまつったのが日置神社。最後に、スサノヲが切った蛇体が二段となって空中に飛び上がり、一段は美濃に落ち、今一段は若狭の山中に落下して闇見神社となる。つまり、落下の際に天地がくらやみとなったので、その地を闇見と名付け、闇見神をまつった。』・・・とあります。

石川県の「能登国一の宮・気多大社」の御由緒の伝承として、・・・『由緒沿革 気多大神宮とも称え奉り、古来能登国一ノ宮として世に知られている。御祭神大己貴大神は国土修営のため越の北島より船で七尾小丸山に入り、宿那彦神等の協力を得てこの地方の賊徒を平定せられた。その恩典を慕いこの地に奉祭したのが本社鎮祭の由緒である。』・・・

さらに、・・・「例大祭(蛇の目神事・流鏑馬神事)/鎮花祭」であり、『その昔、気多の御祭神である大国主神が、邑知潟に住む大蛇を退治し、能登の平定に尽くされたという故事にちなみ、歩射により的を射る蛇の目神事、その後、馬に乗って走りながら的を射る流鏑馬神事が執り行われます。』・・・と紹介されています。

さて、よく観察するとこれらの地域には、ある共通点があることがわかります。

福井市の小羽山30号墓には、九頭竜川・北潟湖・福井平野を抱える低湿地帯があり、白山市の一塚遺跡21号墓には、手取川・犀川・河北潟・金沢平野を抱える低湿地帯があり、富山市の王塚・千坊山遺跡群には、庄川・神通川・井田川・山田川・十二町潟・富山平野を抱える低湿地帯があるのです。

この類似は、出雲においても見ることができます。出雲市の西谷墳墓群は、神戸川・斐伊川・神門の水海・出雲平野を抱える低湿地帯の丘陵にあります。安来市の荒島墳墓群は、飯梨川・宍道湖・荒島安来平野を抱える低湿地帯の丘陵にあります。また、最大の数の四隅突出型墳丘墓がある米子市の妻木晩田遺跡群は、日野川・淀江潟・米子淀江平野を抱える低湿地帯の丘陵地にあるのです。

さらに東進すると、鳥取県倉吉市にも有力な四隅突出型墳丘墓がありますが、天神川水系と東郷湖という潟湖・低湿地帯と関係し、鳥取市の西桂見にある山陰で最大級とされる四隅突出型墳丘墓は、鳥取砂丘を形成した千代川水系と湖山池という潟湖・低湿地帯に関係しているのです。ここから、低湿地帯の開墾・開拓が共通点として浮上するようなのです。

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四隅突出墳丘墓の分布と出雲の神々の伝承が一致する、としましたが、実はこのことと、『出雲の国譲り』が関係するように思えるのです。

以前、“出雲にとって最も重大な出来事であったはずの、「国譲り」に関しては、そのいきさつや、さまざまな出来事、「国譲り」に関して登場した神々のことなどは、『古事記・日本書記』には、こと細かく書かれていますが、『出雲国風土記』では、たった一行で、オオクニヌシが「私が造ってきた国は、皇孫に譲りましょう」と言ったとしか書かれていません。”としました。そして、「出雲の国は大事な玉のように守ります」とも言ったとされています。

このことから、出雲本体の国譲りは無く、オオクニヌシが譲ったのは、出雲が大きな影響を及ぼしていた、伯耆、因幡、丹波、越前、越中、能登といった国々だったのではないかとしました。

改めて、『出雲国風土記』を見てみましょう。
そこには、オオクニヌシは、・・・『我(あ)が造り坐(ま)して命(うしは)く国は、皇御孫命(すめみまのみこと)、平世(やすくに)と知らせと依さしまつり、但、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐(ま)さむ国と、青垣山廻らし賜ひて、玉と珍(め)で直し賜ひて守りまさむ』

(現代語の意訳:「私が造り、支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。ただし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて(玉を愛する如く、愛し正して)国を守ろう」)・・・と言ったとされています。

ここには、二つの領域があると考えられます。ひとつは、「私が造り、支配していた国」であり、もうひとつは「八雲たつ出雲の国」です。

「私が造り、支配していた国」こそ、四隅突出型墳丘墓が造られ、今日までも出雲の神々の伝承が語られ、オオクニヌシ等の出雲の神々を主祭神とする神社(気多大社、高瀬神社、出雲大神宮、倭文神社等など)が残る地域ではないでしょうか。そして、「八雲たつ出雲の国」とは、今の出雲地方のことではないでしょうか。

オオクニヌシ(出雲)は、前者を譲り、後者を死守するという選択をしたのです。その意味は、「自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて(玉を愛する如く、愛し正して)国を守ろう」というところで読み取れます。

「垣根のように青い山で取り囲み」とは、他者が攻め込めないようにしてということであり、「心霊の宿る玉を置いて」とは、強い宗教力をもってということであり、オオクニヌシはこの二つの力で、出雲本体を守ると宣言したのです。

このことは、どのようなことで裏付けられるのでしょうか。いくつかあります。

まず、崇神天皇は、「四道将軍」を北陸、東海、西海、丹波に送り、『従わない者は、兵を持って討て』と命令したとされています。北陸、丹波における出雲の影響力(支配)が解き離れたからではないでしょうか。そして、将軍の派遣は丹波で止まり、出雲には及んでいないのです。

つまり、「垣根のように青い山で取り囲まれた」出雲本体はまだ強力で、攻め込まれなかったのです。

次に、「四隅突出型墳丘墓」は大和の勢力が強くなり始めると、急速に造られなくなります。北陸、丹波、因幡、伯耆の古墳も大和の「前方後円墳」になって行きます。しかし、そうした中で出雲では、四隅を削った独自の「方墳」が造られ続けました。

さらに、オオクニヌシは「オオモノヌシ」として崇神天皇の治世に祟りを起こし、疫病や凶作で、大和の人口が半分になり、崇神天皇もオオクニヌシを祭らざるを得なくなったとされています。出雲は、宗教力でも大和に勝っていたと考えられます。

では、出雲本体が大和に屈したのは何時なのか。神代の時代に国譲りが行われたとの物語は、一体何のために作り出されたのか、少しずつ空想して行きましょう。

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『出雲国風土記』の最初に出てくる郡(こほり)は意宇郡(おうのこほり)。
9つある郡のうち、なぜ最初に出てくるのか?中央から派遣された国司のいる国庁があり、出雲国の中心とされていたからだと思われます。

冒頭に、なぜ意宇と名づけられたかを語る、「国引き神話」が出てきます。
八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)が、「国引き」を終えた後、意宇の杜(もり)に杖を突きたてて「意恵(おえ)」と言ったからとされています。

ところで、よく見過ごされがちですが、この有名な「国引き神話」の後に、実はとても重要な文章があるのです。母里郷(もりのさと)についての記述にある、オオクニヌシの言葉です。
今回は、このことを中心に検討をしたいと思います。

『出雲国風土記』では、
オオクニヌシは、・・・『我(あ)が造り坐(ま)して命(うしは)く国は、皇御孫命(すめみまのみこと)、平世(やすくに)と知らせと依さしまつり、但、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐(ま)さむ国と、青垣山廻らし賜ひて、玉と珍(め)で直し賜ひて守りまさむ』

(現代語の意訳:「私が造り、支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。ただし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて(玉を愛する如く、愛し正して)国を守ろう」)・・・と言っています。

一方、『古事記』では、
・・・『建御雷(たけみかづち)神は、再び信濃から出雲に帰ってくると、大国主神に、「お前の子供である事代主(ことしろぬしの)神、建御名方(たけみなかたの)神の二(ふた)はしらの神は、天つ神の御子のお言葉の通りもう背かないと申した。さあ、お前の答えはどうだ。」と聞いた。』・・・

これに対して、オオクニヌシは、・・・『私の子供達、二はしらの神の申し上げた通りに私も背きません。この葦原中国(あしはらなかくに)は、お言葉通りに全て献上します。

ただ私の住んでいた所を、天つ神の御子の皇位の方が治め太陽のように照り輝かせる、殿所として、地底の岩に届くように宮柱太く掘り立てて、高天の原に届く程に垂木を高く上げてそこを治めていただけるのなら、私は数多くの曲り角を経て遠くに行った片隅に隠れ住みます。

また私の子供達、八十神(やそがみ)は、全て八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)が統率して仕えさせますので、もう背く神はいないでしょう、と答えた。』・・・とされています。

ふたつの記述を比べてみましょう。かなり違っていると思いませんか。

注目すべきは、「風土記」では、
1.オオクニヌシが自発的に国を譲ると言っていることです。別に、高天原から出雲によこされた使者の神に、国を譲るかどうか迫られたり、脅かされたりはしていません。

2.そこから、お子神のコトシロヌシやタケミナカタも登場しません。

3.また、大きな宮(出雲大社)を建ててくれたら国を譲るなどということも言っていません。

特に注目すべきは、
4.「ただし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて(玉を愛する如く、愛し正して)国を守ろう」と言っていることです。
 ここからすると、オオクニヌシは、自分が造り治めてきた他の国は譲るのだけれど、出雲の国だけは譲りませんと宣言していると解釈できます。

『古事記』では、『この葦原中国は、お言葉通りに全て献上します。』とされ、出雲の国も含めてすべて献上したことになっています。
 また、「垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて(玉を愛する如く、愛し正して)国を守ろう」と言っているのですから、他からの侵害があれば「守る」という、積極的な姿勢がうかがえます。もちろん、片隅(八十くまで・幽界)に隠れるなどとも言ってはいないのです。

大きな食い違いがあると思われます。

どちらが本当なのかと考えるのも良いかもしれませんが、むしろ、この食い違いはどこから来たのだろうか、と考えてみるほうが面白いと思います。

1.『古事記』が作られたのは、712年。『出雲国風土記』が作られたのは733年。『古事記』の内容は、出雲でも知られていたと思われます。

2.『古事記』は、日本国と天皇家の成り立ちを書いた最も権威のある本。『出雲国風土記』は、出雲の国という一地方のことを書いた本。

ここからすると、常識的には、『古事記』に書いてある「国譲り」の内容と食い違ったり、矛盾したりすることは書けなかったはずです。しかし、あえて違った内容が書いてあるのです。

いろいろな考え方。
1.「国譲り」の真実はこうなのだと、『出雲国風土記』の作者が踏ん張った。あるいは、出雲の側からの見方を後世に伝えたかった。

2.たかが「風土記」に書いてあることだと、見過ごされた。

3.出雲の側がそう言うのなら仕方がないとして、あえて訂正を求めなかった。

それ以外に、なぜ「越の八口」を平らげて帰ってきた時に、突然このようなことを言ったのか、なぜ、「意宇の長江山」で言ったのか、様々な謎もふくまれているのです。

それにしても、出雲の人たちにとっては、誇り高い内容です。皆様はどう思われますか。

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