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『出雲国風土記』には、どこの郡(こほり)にも、数多くの草木についての記載があります。

例えば、意宇郡では、「凡そ(およそ)、諸(もろもろ)の山野にある所の草木は、・・・」として36種の草木が記載されています(16ページ)。
出雲郡では18種の草木が記載されています(62ページ)。そして、すべての郡に草木の記載があります。皆様が知っている草木もたくさんあるはずです。なぜ、これほどの草木を記載する必要があったのでしょうか。

加藤義成先生は、『風土記時代の出雲』という本で、次のように書いていらっしゃいます。・・・『「出雲国風土記」には各郡に草木禽獣(そうもくきんじゅう)の目録が載せられているが、そのうち、草はすべて薬草であって、薬草の書である「本草和名」や延喜式の典薬寮(てんやくりょう)の条等に見えるものである。』とされています。

さらに、・・・『延喜式によれば、当時、出雲から(朝廷に)貢進(こうしん)した薬草は53種であったが、そのうち36種はわが風土記に見えるものである。』とされています。つまり、この風土記にある草は36種であり、そのすべてが薬草だとされるのです。

ここで「典薬寮」とは、朝廷の宮中にある部署で、薬物や、治療、薬園のことをつかさどっていました。そこには、医師、医博士、医生、針師、針博士、按摩(あんま)生、呪禁(じゅきん)博士、呪禁生、薬園師、薬園生を置き、官人の治療に当たらせていたとされています。

その典薬寮に出雲からみつがれた薬草の数は多いのか、少ないのかといえば、その53種は「近江国73種」、「美濃国62種」に次ぎ、「播磨国」と並んで多かったとされています。

近江国、美濃国、播磨国といえば、大和に隣接するような国々です。丹波、因幡、伯耆、吉備国など大和に近い国々よりはるかに多く薬草を貢物(みつぎもの)としたのは、なぜでしょうか。不思議なことに『出雲国風土記』は、淡々と草木を羅列(られつ・並べる)するだけで、朝廷に貢いだなどとはひとことも書いていないのです。また、その草木の効能も書いてありません。ここまでを前提にあれこれ想像してみましょう。

すでにお気づきと思いますが、「古事記」や各国の風土記の神話には、出雲の神々と医薬にまつわる話が出てきます。

1.オオクニヌシと因幡のしろうさぎの話です。ここでは、オオクニヌシがワニによって丸裸にされたしろうさぎを、真水で体をあらい、がまの穂綿にくるまれば傷が治ると教えています。

2.オオクニヌシが兄弟の八十神によって、赤く焼けた大岩をイノシシだといって抱き止めたために大やけどをして死んだ時に、再生できたのは、キサカイ姫とウムカイ姫の赤貝とハマグリのやけど薬による治療でした。

3.また、オオクニヌシの国つくりを助けたとされるスクナヒコナは、まじないや除虫、除草剤で害虫や害草を取り除き、また疫病(えきびょう・伝染病)を防いだとされています。

4.そのスクナヒコナが病気になった時、オオクニヌシは伊予の道後温泉にスクナヒコナを連れて行き、温泉につからせて再生させたとされています。今でいう温泉療法を施したのです。

5.さらに、スサノヲは、茅の輪(ちのわ)を腰に巻くことによって病気・厄災(やくさい)から逃れられるとし、今日でも無病息災を願う「茅の輪くぐり」が各神社の祭礼で行われています。

これらは、すべて出雲の神々の話です。しかし、不思議なことに、こうしたことは『出雲国風土記』には書かれていないのです。1.は因幡(古事記)、2.は伯耆(古事記)、3.は播磨(播磨国風土記)、4.は伊予(伊予国風土記)、5.は安芸(安芸国風土記)でのこととされています。

一方で温泉療法、すなわち、すぐれた効能をもつ温泉につかることは、ひとつの健康法、医療法とされていますが、『出雲国風土記』は三ヶ所で温泉のことが出てきますが、2ヶ所で温泉の効能のことを誇らしげに記載しています。有名なのが意宇郡の玉造温泉です(12ページ)。
ここでははっきりと、「一度温泉を浴びればたちまち姿も麗しくなり、再び浴びればたちまちどんな病気でもすべてなおる。ききめがないということがない。だから、土地の人は神の湯といっている。」(荻原千鶴 訳)とあります。

もう1ヶ所は仁多郡の湯村温泉です(88ページ)。

ここでも、「この川のほとりに薬湯がある。一度浴びればたちまち身体はやすらかになり、再び浴びればたちまちどんな病気も消えさってしまう。男も女も老人も子どもも、昼も夜もやすまず、行列するようにかよってきて、ききめがないということがない。だから、土地の人は名づけて薬湯と言っている。」(荻原千鶴 訳)とあります。もう1ヶ所は海潮温泉です(91ページ)。しかし、ここには効能の記載はありません。

であれば、朝廷の典薬寮に53種もの薬草を貢いでいるのですから、このことも、もっと分かりやすく誇らしげに語ってもよかったのでしょうか。

ついでながら、もうひとつ温泉について不思議に思うことがあります。日本三美人の湯「湯の川温泉」が、『出雲国風土記』に出てこないことです。この温泉は、『出雲国風土記』(733年)ができる20年も前の『古事記』(712年)には出てきているのです。

有名なオオクニヌシと八上姫(ヤカミヒメ)の話です。因幡からはるばる出雲に来た八上姫は、オオクニヌシに会う前に、湯の川で旅の汚れを落とすために湯を浴びて、しかも和歌までよんだとあるのです。

『出雲国風土記』の編者は、『古事記』をよんでいたはずだといわれています。玉造温泉、湯村温泉は、『古事記』とは無縁です。それなのになぜ、『古事記』に出てくる「湯の川温泉」を、『出雲国風土記』に載せなかったのでしょうか。

ところで、大原郡に「加多社」があるとされています(92ページ)。ここには面白い言い伝えがあるのでご紹介しておきます。

島根県雲南市大東町に『出雲国風土記』にも記載されている「加多神社」があり、そこはスクナヒコナが主祭神となっています。神社の案内板の「由緒書」には、『神社の起源:記録がないため明らかでないが、少彦名命はこの地を根拠地として農耕医療等を教導された。その神徳を敬慕し古代より斎祀せられたものである』とされています。大原郡の「加多社」あたりが、出雲の医薬の本拠地だったというのです。今の、大東高校の裏手です。

この、加多神社の「加多」とは、・・・『「医術」と「加多」という組み合わせから、中国三国時代(2世紀)の医者・華陀(かだ)を連想する。日本では卑弥呼の時代だろうか。大麻から作った麻酔薬を用いて外科手術を行った中国の名医だ。』とされる見解があります。

つまり、「加多」とは、中国の医者である「華陀」という人の名前からきたものであり、スクナヒコナは、「華陀」の化身、あるいは、「華陀」から中国で医薬の術を学んだ渡来系の神だったのではないかとされるのです。

以上のことから、『出雲国風土記』が、多くの薬草を載せながら、その効能や、薬草の発見や、薬草栽培について語らなかったのは、「実は、出雲には、大和以上に深い医薬の歴史や、医薬の神話が現実に存在し、医薬の先進地だった」ということに対して、大和政権に遠慮したからだと思われるのです。よく見れば、大和の神々が医薬を使って人や動物を治療したという神話はないのです。

一方、『日本書紀』では、・・・『5世紀ごろから、半島(新羅・百済)や大陸(隋・唐)文化の移入とともに、医学の知識も入ってきた。」とされ、「薬師恵日、倭漢直福因が遣隋使小野妹子に随行し医術を学ぶ。外国に医術を学んだはじめ。」とか、「薬師恵日、倭漢直福因が唐から帰国。これから隋唐の医方が起こった。」』・・・とされています。しかし、隋や唐の医術といえども、それは、もっと前からの時代のものを受け継いだものです。

そうだとすれば、出雲でも、それよりずっと以前の出雲の神々による医薬についてのいろいろなできごととして、語り継がれていたはずです。しかし、『日本書紀』が、そのように書いているなら、そのことは正面からは書けなかったように思えるのです。

その代わりに、『出雲国風土記』に、これでもかというほどの薬草を載せて見返していると思うのです。身近な薬草について考えて見ましょう。

出雲国造様の弟様の和比古さんは、私の同級生ですが、和比古様の甥子様が国麿様に当たります。おじちゃんもとても優しい人柄です。一同でお二人をお支えなさるることでしょう。

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『出雲国風土記』の「出雲郡」の条に、次のような記載があります。
・・・「磯(いそ)から西の方にある岩窟(がんくつ)は、高さ・広さそれぞれ6尺ばかり。岩窟の中に穴がある。人は入ることができない。奥行きの深さ浅さは不明。夢でこの磯の岩窟あたりに行くと、必ず死ぬ。だから土地の人は、昔から今にいたるまで、黄泉(よみ)の坂・黄泉の穴とよんでいる。」(荻原千鶴 訳)。この場所は、現在の猪目(いのめ)洞窟だといわれています。

これが、『出雲国風土記』が黄泉についてふれている唯一の部分です。『古事記・日本書紀』には、イザナギ・イザナミ命に関係して、黄泉の国についてかなり多くの記載があります。黄泉の国はどこにあったのか色々な議論がありますが、この記載があるところから出雲の地下だという人もいます。ともかく、黄泉の国とはあの世・死後の世界だとされています。

一方、オオクニヌシは国譲りの後、「今から私は、かの幽界に参りましょう」といってお隠れになったとされています。また、「私は退いて幽界の神事を担当しましょう」とも言ったとされています(『日本書紀』)。

では、『古事記・日本書紀』の「黄泉の国」と、『出雲国風土記』の「黄泉の坂・穴」は同じものでしょうか。そして、「黄泉の国」と、「幽界」は同じ「あの世」なのでしょうか。また、幽界でのオオクニヌシの役割は何だったのでしょうか。このことについて、あれこれと考えたいと思います。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が『神国日本』(1904年)という本で、次のようなことを言っています。

・・・『その領国(出雲・葦原中国)を譲り渡した大国主神は、「見えない国」−すなわち「霊の国」の支配者となったのである。この神の支配する幽冥(ゆうめい)の国に万人の霊はその死後に赴くのである。それでこの神は氏神のすべてを支配することになるわけである。それだから、大国主神を「死者の帝王」と呼んでもよいことになろう。』・・・

・・・『平田は言う、われわれはもっとも望ましい事情の下でも、百年以上の寿命を望むわけにはいかない。しかし死後は大国主神の「幽冥の世界」に行って、彼に仕えるのだから、いまのうちにこの神前に額(ぬか)づいて拝むことを習っておくがよい。』・・・。

小泉八雲の文章の中の「平田」とは、江戸時代の神道学者である平田篤胤(ひらた あつたね)のことです。どう言っていたのか、見てみましょう。

・・・『この世にいる間は、大かたの人は、百年に満たないのに、幽世に入ると永遠である。したがってこの世は、人の仮の世であって、幽世が本当の世であることは間違いない。』・・・『オホクニヌシとは、国つ神はいうまでもなく、天つ神でも国土にまつられた神や、世の中のあらゆる人が、この世を去って、幽冥界に帰ってきた魂たちを支配する大神なのである。』・・・。

・・・『およそ人も、このように生まれて現世にいるうちは、目に見える世界にいるのであって、天皇の民となっているのであるが、死ねば、人の霊魂はそのまま神であり、かの幽霊(ゆうれい)、冥魂(めいこん)などともいうように、すでにいわゆる幽冥(ゆうめい)に赴く(おもむく)のである。そうすると、その幽冥界を主宰(しゅさい)されている大神は、オホクニヌシであられるので、この神に従い申し上げ、そのおきてをご承知申し上げるのである。』(『霊の真柱』)・・・。

そして、平田篤胤が師と仰ぎ、『古事記』を深く読み解いた、本居宣長(もとおり のりなが)は、次のようなことを書き残しています。

・・・『さて、かのオホクニヌシと申す神は、出雲大社の神様であり、はじめにこの天下をお作りになり、また八百万(やおよろず)の神々を統率(とうそつ)して、世の中の幽事を主宰される神でいらっしゃるので、天下の身分の高い人も低い人も、恐れ敬い(おそれうやまい)崇拝(すうはい)申し上げなくてはならない神なのである。』(『玉くしげ』)・・・。

小泉八雲は、オオクニヌシを「死者の帝王」とし、平田篤胤は「幽冥界に帰ってきた魂たちを支配する大神」・「幽冥界を主宰(しゅさい)されている大神」とし、本居宣長は「世の中の幽事を主宰される神」としているのです。オオクニヌシが幽界でどのような役割を果たしているのか、少し分かったような気がしませんか。

さて、明治になってこのような考え方を広く広めようとしたのが、第80代出雲国造となった、千家尊福(せんげ たかとみ)公でした。

次のようなことがあったとされています。・・・『明治時代になって、太政官布告(だじょうかんふこく)で全国の神社の社格が定められた際に、愛知県の熱田神宮や大阪府の住吉大社と同様に「官幣大社(かんぺいたいしゃ)」とされた出雲大社について、伊勢神宮と同じく官社の上に列せられるよう、第80代出雲国造千家尊福は請願書を提出しました(原武史『出雲という思想』)。』

その内容は、・・・『オホクニヌシが幽冥の大権を握り、この国土に祭っている霊魂や、幽冥界に帰ってきた人の霊魂を統括(とうかつ)なさるのは、天皇が顕界(けんかい・この世)の政治を行って万民を統治なさるのと違わない。』・・・。

・・・『このようにオホクニヌシが幽冥の大権をお取りになるからは、神の霊魂も人の霊魂も、みなオホクニヌシが統治されるわけであるから、全ての神社を統括するのもまた出雲大社であるべきなのは、議論するまでもないことである。』・・・というものでした。
つまり、出雲大社は伊勢神宮と同じように、一番社格の高い神社とされなくてはならないと言ったのです。

また、次のようにも説いていらっしゃいます。
・・・『この国土に生ずる万物は、もとよりオホクニヌシのお作りになった国土に生じたものであり、たとえ太陽の光を受けても、土地を離れては生ずることができないことを知るべきである。いやしくも草木が生えるのも生えないものも、土地が肥えているか痩せているかによるということからも、オホクニヌシが国作りされた高い徳を仰がなくてはならない。』・・・

・・・『ましてやわが身を顧みれば、筋骨毛髪血肉など、すべて大地の精気によってならないものはなく、これらを養うのもまた、大地の精気によらないものはなく、死後にまた身体が土となることなどからも、大地の精気はわれわれの身体を作る根本であることは明らかである。』・・・

・・・『したがってこの国土に生を受けた者は、大地の支配者であるオホクニヌシのおかげによらなければ、天つ神の高い徳を受けることができないゆえんを明らかにして、天つ神を崇敬するにしても、まず大地の恩が大切であることを謹んで感謝しなければならない。』(『神道要章』原武史『出雲という思想』より)・・・。

つまり、第80代出雲国造千家尊福は、国を譲ったとか、幽界をオオクニヌシが支配するのかといったこと以前に、この国の大地を切り開いて国作りをして、大地の精気を引き出したオオクニヌシなくしては、食糧も人も生まれなかったとしているのです。

そしてこの国土に生をうけた者がいなくては、天つ神の高い徳も受けられず無意味なことだとしています。ましてや、「顕(あらわ・現世)」の天皇の徳も受けられないこと、すなわち天皇の人民に対する統治さえ無意味だといっているのです。

このような考え方をすれば、オオクニヌシは、現世では敗れたものの、あるいは出雲は現世では衰退したものの、現世の「顕界」と同等のあの世である「幽界」を永遠に支配する、という立場を手に入れたとも考えられるのではないでしょうか。

残念ながら、千家国造の考え方は採用されませんでした。
しかし、出雲郡(いずものこほり)に黄泉の坂・穴があると記載した『出雲国風土記』にも、実は千家国造のような考えがあったのではないでしょうか。黄泉の国や幽界は、『古事記・日本書紀』と異なり、出雲では決して、おどろおどろしたもの、ジメジメした暗いところ、怪しいところというものではなく、あの世に赴いた人々をオオクニヌシが迎え、支配する立派な世界だと考えていたのではないでしょうか。

オオクニヌシの幽界(あの世)での役割、あるいは教えについては、あまり語られることがないので、今回、小泉八雲、平田篤胤、本居宣長、千家尊福といった方たちの見方を取り上げてみました。

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『出雲国風土記』仁多郡の条に、次のような記述があります。

『其の津の水活れ出でて(ながれいでて)、(オオクニヌシが)御身沐浴(みみゆあみ)ましき。』
『故(かれ)、国造(くにのみやつこ)、神吉事奏しに(かむよごとまをしに)、朝廷(みかど)に参向(まいむかう)ふ時に、其の水活れ出でて(ながれいでて)、用ゐ初むる也(もちいそむるなり)。』

どういうことでしょうか?
現代語訳は次のとおりです(荻原千鶴訳)
『その津の水が湧き出て、その水を浴びてお身体を清めなさった。だから、国造が神吉事を奏上するために朝廷に参向するときに、その水が湧き出て、清めに用い初めるのだ。』

少し難しいですが、要するに出雲国造が出雲から大和の朝廷に出向いて、天皇に対して神吉事を奏上する時には、ここにやって来て、オオクニヌシが沐浴した水で身を清めてから大和朝廷に出かけるのだ。と言うことなのです。では、その『神吉事(かむよごと)』というのは、どんなものでしょうか。

『出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命された者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎(けっさい)に入り、その後、国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞(かむよごと)である。』

『六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。』という指摘があります。

先に見た『出雲国風土記』の仁多郡に記載のある、『オオクニヌシが沐浴した水で身を清めてから大和朝廷に出かけるのだ。』ということは、ここにある1年間の潔斎(けっさい)の儀式のひとつが仁多郡で行われるということなのです。
では、その奏上される神吉事・神賀詞(かむよごと)の内容とはどんなものでしょうか。

その流れを要約すると次のようなものです。

1.まず、「言葉にかけて申し上げるのも畏れ多い御現神としてこの日本の国を治められます天皇様の大御世を長久の大御世でありますようにと寿ほぎ(ことほぎ)ます。」と述べます。

2.次に、「神厳な斎屋に篭って、安静なる神殿に忌み鎮めて御祭を営み、この朝日の差し昇る良き日にここに参朝して復命の神賀の吉詞を奏上致します事ここに奏します。」として、清らかな身であるといいます。

3.そして、出雲が天皇に統治されることになったいきさつを述べます。「天穂日命(アメノホヒノミコト)を国土の形成を覗う為にお遣わしになられ(中略)、その、天穂日命は「出雲の荒ぶる神を鎮定服従させて天皇様には安穏平和な国として御統治になられますようにして差し上げます。」と申されて、御自身の御子、天夷鳥命(アメノヒナトリノミコト)に布都怒志命(フツヌシノミコト)を副へて天降しお遣わしになられまして荒れ狂う神々を悉く平定され、国土を開拓経営なされました大穴持大神=大国主命をも心穏やかに鎮められまして大八嶋国の統治の大権を譲られる事を誓わせになられました。」(天穂日命(アメノホヒノミコト)は出雲国造の祖先です)。

4.そうしたことから、「オオクニヌシは自身の和魂(にぎたま)と3柱の御子神(アジスキタカヒコネ命・コトシロヌシ命、カヤナルミ命)を大和の守り神として鎮座させ、御自分は八百丹杵築宮(やほにきづきのみや)に御鎮座せられました。」と奏上します。(八百丹とは出雲の枕詞です)

5.そして、「御世の寿祝を祝福する神宝を奉献致します事を奏します。」とし、白玉・赤玉・青玉、白馬、白鳥、鏡などを献上するのです。

6.最後に、「天皇様が大八嶋国を天地日月と共にいつまでも平安に統治遊ばされます事を祝福致します為にこれらの神宝を捧げ持って神の礼白、臣の礼白としてつつしみ畏まって(かしこまって)祖先の神より代々伝わりますこのめでたき良き詞を奏上致します事を奏します。」と結ぶのです。

これを「出雲国造神賀詞(いずもくにのみやつこかむよごと)」といい、全国の国造の中で出雲国造だけが奏上するものです。
ここで、一緒に考えてみましょう。

1.なぜ出雲国造だけが、天皇家にこれだけの寿ぎ(ことほぎ)と、献上物を奏上することになったのでしょうか。

2.「国譲り」のいきさつを述べていますが、良く見ると『古事記』や『日本書紀』にあるいきさつとは異なる内容が奏上されています。なぜでしょうか。(大穴持大神=大国主命をも心穏やかに鎮められまして大八嶋国の統治の大権を譲られる事を誓わせたなど)。

3.この神賀詞は、「霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回」奏上されたとされていますが、そもそも、最初の奏上のきっかけは何だったのでしょうか。また、なぜ奏上されなくなったのでしょうか。

4.神賀詞を「服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。」とされていますが、どう違うのでしょうか。(国譲りのいきさつの部分を重視すれば大和朝廷には反抗しませんよという服属儀礼のようであり、「復命の神賀の吉詞を奏上致します」という部分を重視すれば国造に任命されたことへの復奏と見ることができます)。

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『出雲国風土記』飯石郡の条に、次のような記述があります。

『波多小川(はたのをがわ)。鉄(まがね)あり。』
『飯石小川(いひしのをがわ)。鉄(まがね)あり。』
 つまり、風土記の時代に飯石郡では鉄が採れたとされているのです。

『出雲国風土記』では、もう一ヶ所、鉄が採れたとの記述があります。仁多郡(にたのこほり)です。
 そこには、三処郷(みところのさと)、布勢郷(ふせのさと)、三沢郷(みざはのさと)、横田郷(よこたのさと)を説明した後に、『以上の諸(もろもろ)の郷より出す所の鉄(まがね)、堅くして、尤も(もっとも)雑具(くさぐさのもの)を造るに堪ふ(たふ)。』とあります。

ここから分かることは、出雲には大きく二系統の鉄の産地があったことがわかります。ひとつは、波多小川、飯石小川といった神戸川水系の産地と
仁多の斐伊川水系の産地です。

ところで、飯石郡の記述では、単に鉄(まがね)あり、とされているだけですが、仁多郡の記述では、さらに詳しく「堅くして、尤も(もっとも)雑具(くさぐさのもの)を造るに堪ふ(たふ)。」とされています。

このことは、どちらの水系の鉄も、同じ中国山地の花崗岩からの砂鉄が原料ですから、仁多郡の鉄の方が飯石郡の鉄よりすぐれていたという事ではなく、出雲で採れる鉄は良質なものだということを説明したものだと思われます。

では、他の国の風土記に鉄の記載があるのでしょうか。『播磨国風土記』には次のような記載があります。

讃容(さよ)郡の条において・・・『山の四面に十二の谷あり。皆、鉄を生す。』・・・とあり、その鉄は朝廷に進物されたといいます。さらに、宍禾(しさわ)郡の条において、・・・『敷草の村、草を敷きて神の座と為しき。故、敷草といふ。この村に山あり。(中略)鐡(てつ)を生ず』・・・などとされています。

また、吉備国では、風土記ではありませんが、吉備の枕詞は「真金(まがね)吹く」とされています。

ここで、いくつかの疑問がわいてきます。ひとつは、風土記の時代の出雲での鉄の生産は、江戸時代の一時期のように他国を圧倒するようなものだったのだろうかというものです。

先に見たように、『出雲国風土記』の記載は質素なものです。一方、『播磨国風土記』の記載は、いかにも鉄の生産量を自慢するようなものです。また、吉備国も、自らの国を説明するのに「真金吹く吉備」と自慢しています。出雲国がこれらの国々よりも大きな生産地だったとしたならもっと自慢げに『出雲国風土記』に記載したのではないでしょうか。

次の疑問は、スサノヲとオロチ退治に関係することです。オロチのしっぽから天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が出てきて、それが、あまりにも立派な剣だったので、スサノヲがアマテラスに献上したという話が『古事記』に出ています。

このことから、神代の時代から出雲は剣を造るのに適した良質な鉄が採れる国だったという解釈があります。しかし、『出雲国風土記』は、鉄剣の製造のことなどは書かず、「雑具(くさぐさのもの)を造るに堪ふ(たふ)。」としているのです。「立派な剣を造るのに堪ふ(たふ)。」とはしていないのです。雑具とは、鍬(くわ)や、鋤(すき)、鎌(かま)といった農業道具のことではないでしょうか。

また、『延喜式』においても出雲は、伯耆・ 美作・備中・備後・筑前などと異なり、朝廷に対する鉄の「貢納国(調庸国)」とはされていないのです。こうしたことから、風土記の時代には、まだ出雲は大きな鉄の生産地ではなかったと考えられるのではないでしょうか。

しかし、中世、近世に出雲は大きな鉄(和鋼)の生産地になります。その原因は、カンナ流しという砂鉄を大量に採ることができる方法が導入されたことと、しかも、出雲の山砂鉄は真砂目という良質な砂鉄だったこと、タタラ製鉄という生産方法が確立されたこと、さらに中国山地の豊富な森林資源によって木炭の調達が容易だったことだとされています。

そして、神戸川水系では朝日タタラなどが運営され、斐伊川水系では菅谷タタラなどが運営されていたのです。

さて、風土記の時代の鉄生産が、出雲では案外細々としたものだったとすると、斐伊川下流の平野の様子も江戸時代とは異なったものと考えなくてはなりません。

斐伊川は、今日のように一筋の天井(てんじょう)川ではなく、大きな堤防も築かれていない、多くの川筋に分かれて平野部を流れていたことでしょう。また、カンナ流しによる川の汚濁もなく、清らかな水が流れていたことでしょう。

川の汚濁については、カンナ流しによって慶長15年(1610年)には、宍道湖に土砂が流れ込んで松江城の要害(ようがい)を破損させるといわれ、その後24年間のあいだカンナ流しが停止させられたとされています。

また、水の汚濁や堆積の害について、斐川をはじめ平野部の農民から多数の陳情があったとされています。『出雲国風土記』には出雲郡などの川にたくさんの魚が遡上(さかのぼる)したとありますが、天井川になってしまってからは、その数や種類は激減したことと思われます。

《出雲の鉄の豆知識》

砂鉄の種類
採れる場所によって
1、浜砂鉄 2、川砂鉄 3、山砂鉄

品質によって
1、真砂(目)砂鉄 2、赤目砂鉄
採れる岩石によって真砂砂鉄は純花崗岩から採れ、赤目砂鉄は安山岩系の岩石から採れる。
褐鉄鉱など不純物が混じっており、品質が劣る。
中国山地の北側(出雲側)からは、真砂砂鉄が風化花崗岩の中に含まれ、南側(吉備側)からは、赤目砂鉄が採れる。
日本刀などに使う玉鋼(たまはがね)は、真砂砂鉄が最上。そこから、江戸時代には出雲の玉鋼がもてはやされ、生産量が増えた。

鉄山主の山林所有面積
島根
1、田部家・・・約2万4000町歩
2、桜井家・・・約3400町歩
3、糸原家・・・約3000町歩
4、堀家・・・・約1000町歩
鳥取
1、近藤家・・・約5400町歩
2、坂口家・・・約1500町歩

山林の所有は木炭の調達のためであり、多くの山林を持つほど多くの木炭を使って鉄を生産できるので、いかに江戸期における出雲の鉄山主が和鋼を生み出していたかが分かります。


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