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播磨と出雲については、このblogの『いくつもの出雲(その7「播磨」) 』でも少し書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/39183354.html
今回は、もう少し深く考えてみたいと思います。というのも次のような指摘があったからです。・・・『輸入した鉄を加工するのではなく、砂鉄から鉄をつくるたたら製鉄の技術は、播磨から、吉備や出雲に伝わり、日本刀などを支えたはずなので、播磨のことを吉備や出雲と、大和の間の空白地帯の様に扱うのは、納得行かない感じです。』・・・。
また、・・・『もう一つの名を「金屋子神」という。この神は播磨から出雲へと移動した神である。播磨・吉備の境にもともといたという伝承が残されている。』・・・。
そして、・・・『出雲>吉備>播磨と流れてきた青銅器とは違い、製鉄民の移動を表すかもしれない金屋子神=天目一箇神は播磨>吉備>出雲と動いている。文化が変質しながらも循環しているのだ。これは吉備・播磨・出雲という土地が葦原中津国という大国主の支配した一つの「クニ」であったことを示しているのではないだろうか?つまりもともと、出雲・吉備・播磨・因幡・三丹などの中国山脈を擁する西国は全部が出雲であり、時代によっては全部が吉備であった。という事ではないだろうか?』・・・。
さらに、・・・『日葉洲媛(ヒバスヒメ)命といえば、埴輪の登場が思い起こされる。垂仁の側近で相撲の元祖とされる出雲人野見宿禰が埴輪を作ったのはこの姫の葬儀が最初である。野見宿禰本人の墓が大和でも出雲でもなく播磨にあるのが不思議な感じがするが、彼は吉備津彦により征服された出雲から吉備・播磨の土地に連れてこられた出雲王族の一人だったのかもしれない。』・・・。
こうした四つの指摘を元にして、『播磨国風土記』に残された伝承なども参考にしながら、「播磨と出雲」の関係を空想したいと思います。
まず、『砂鉄から鉄をつくるたたら製鉄の技術は、播磨から、吉備や出雲に伝わり』という部分から考えたいと思います。出雲でのかんな流しなどの方法による製鉄が、一時期は日本の製鉄の大きな部分(65%)を占めたことから、近代製鉄以前の製鉄といえば出雲というようなイメージがあります。
しかし、古代においても、それほど突出していたのかは疑問だという指摘もあります。ヤマタノオロチと鉄剣を結び付けたりして、誇張されたのではないかとの指摘もあるのです。
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