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島根県には、安来市・雲南市・奥出雲町などが連携した「鉄の道文化圏推進協議会」という団体があります。確かに、山間部の奥地からも、そして中間の山間地をたどっても、また平野部の道を通っても、それぞれの地域を結ぶことができます。まさに、鉄の道がネットワークを構成しているのです。
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しかし、こうしたことが単に出雲地方のみならず、中国山地の山口県から兵庫県の東端にまで広がっていたとしたら、古代の山間地文化と交通と交易は、鉄を媒介として、とても大きな影響力をもっていたと考えられるのです。出雲の鉄・吉備の鉄・伯耆の鉄・播磨の鉄といったようにバラバラに考えるのではなく、古代鉄の道ネットワークといった大きな枠組みで考えることもできるのです。
さて、このblogの『いくつもの出雲(その7「播磨」) 』では、次のように書きました。『「播磨の国」は、地理的には瀬戸内海側と山間部の二つに分かれます。その中で、『播磨国風土記』の山間地における大事な伝承は、「オオクニヌシ・アシハラシコオ・スクナヒコナ」といった出雲の神で埋め尽くされているように見えます。さらには、時代が下って「野見宿禰(ノミノスクネ)」も登場します。この理由は、地理的に「出雲」・「伯耆」・「播磨」という形でつながっているからということと、出雲から大和方面への古道が播磨を通っていたことが挙げられます。』と。
しかし、播磨が中国山地の産鉄地域を結ぶ媒介の中心だとすると、この考え方は修正されなくてはならないと考えました。単に地理的に「出雲」・「伯耆」・「播磨」という形でつながっているとか、出雲から大和方面への古道が播磨を通っていたということでは済まないからです。
つまり、古代の産鉄集団が砂鉄を求めて、あるいは産鉄技術の伝播のために、中国山地の山道を切り開き、住み付き、それぞれに交流したり、さらには平野部の農耕民との間に鉄製農具と食糧生産物との交易を行っていたことこそが、出雲と大和の古道が開かれ、後の交流・交渉・抗争のきっかけを作ったことになるからです。
山深い中国山地です。もし、古代産鉄集団による交通ネットワークの開拓がなかったとすれば、もっと長い間、出雲は出雲、大和は大和といった形で分立していたのではないでしょうか。「龍野神社の社域で野見宿禰が没し、出雲人達が、龍野神社のある的場山中に揖保川から人を連ねて石を運び宿禰の塚を築いた」とされています。後年の、野見宿禰の大和と出雲の往来も、そうした交通ネットワークのおかげだったといえるかもしれません。
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