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(その18)で、『あくまでそれ(四隅突出型墳丘墓)の財源は吉備・瀬戸内地域との交易による富であり、墳丘墓の埋葬主体はそうした交易のリーダー格であった人達であると考えたいと思うのです。』と書きました。
それを裏付けるように、倭国大乱が収まり、邪馬台国と狗奴国との戦いも終わり、吉備に楯築(たてつき)遺跡が造られ、大和に纏向(まきむく)遺跡が造られる時代になると、四隅突出型墳丘墓はぱったりと造られなくなるのです。
このことが示すのは、倭国大乱とそれに続く邪馬台国と狗奴国との戦争が終わり、瀬戸内航路が復活すると、出雲経由吉備・瀬戸内地域への鉄資源・鉄製品の交易ルートからは、大きな富の集積が生み出されなくなったということではないでしょうか。
そして、高句麗系の商人や交易リーダー達の出雲への往来も減り、高句麗の積石塚古墳の流れを汲む特徴的な形をした四隅突出型墳丘墓は造られなくなったと考えられるのです。また、鉄資源・鉄製品の交易によって大きな富を得た出雲の交易リーダー達も次第にその勢いを失い、在来の農業開発や国土造成においての指導的リーダー達が、他の地域と同じように政治的指導者になっていったのです。
しかし、いったん目の当たりにした大型墳丘墓の威容は、富の象徴であろうと権威の象徴であろうと大きなインパクトを残したのです。そこで、その後に出雲の政治的指導者となった集団や、一族たちは、四隅の突出といった高句麗系の特徴は削ぎ落として、方墳という形の首長墓を作ることにしたのではないでしょうか。そして、方墳・前方後方墳という墳型が、その後の長い間、出雲の古墳のスタンダードとなったと考えられるのです。
一方で、倭国連合から初期大和政権へと推移した吉備・瀬戸内地域・畿内では、その一体感・連帯の誇示のために、出雲とは異なる首長墓である前方後円墳を作り始めたのです。このようにその頃の推移をたどって見ると、やはり出雲は倭国の一員ではなかったということになるのです。
しかし、先にも指摘したように、その時代に出雲が開拓した交易ルートによって、中国山地の安芸・備後から播磨に至るまでの地域に、出雲の影響力が深く刻まれたことは間違いないのです。そうした出雲の姿は、初期大和政権に対して様々な影響を与えたことでしょう。ある面では、出雲恐るべし。ある面では、出雲捨てがたし。ある面では、出雲の今後の動向やいかに、などといった複雑な思惑が出雲に対して付きまとうことになったのです。
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