いずものこころ

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『大社の史話』154号(2008・6発行)に、「鷺銅山の支石墓問題」と題する梶谷実さんの論文が載っているのを、今日確認し読了しました。100人ぐらいの旧新羅の人達が渡来して、銅山開発をし、不幸にも亡くなった技術リーダーが、故地の墓制である支石墓に埋葬されたとされています。その他にも様々に論証されていますが、ご自身でもう少しいろいろな角度からの根拠が欲しいとされています。
http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/54676390.html

鷺銅山の西の海岸部には、有名な日御碕があります。そこの日御碕神社の伝承に、次のようなものがあります。二月の節分の「的射祭」にまつわるものです。・・・『孝霊天皇六十一年月支国の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せりと云う。こゝに於て神威を畏み神恩報賽の祭りを執行して現在に至る。』・・・。

どういうことでしょうか。問題となるのは、『月支国』です。この国は、・・・『紀元前二世紀頃、京幾北部地域には『辰国』があったと推定される。以後京畿地域は馬韓連盟体に属したが、連盟五十四カ国のなかの十余の小国が京畿道地域に分布した。紀元前75年、辰国が三国に分離され、漢江以南の地域にまで勢力を及ぼした馬韓と辰韓の地になった京畿道は、政治的には月支国の盟主である辰王の支配下にあった。』・・・といった形で出てくる朝鮮半島の国なのです。

さらに・・・『辰国が知られた当時は、北西部には箕子朝鮮、北部から東北にかけては穢族の集団、西南に馬韓となる。馬韓地域の一部を割譲して弁韓と辰韓とした。辰王は月支国に王宮を構える大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。』・・・との解説もあります。

日御碕神社の伝承では、月支国の軍船は沈没して上陸はできなかったとされていますが、ここで大事なことは、朝鮮半島の国から日御碕ひいては鷺浦への渡海があったことが伝承となっていることなのです。目的は何だったのでしょうか。『月支国』は『京畿道』にあったとされていますが、その地域からは青銅器時代遺跡などがあったことが証明されています。

梶谷実さんは、朝鮮半島から鷺銅山の銅資源を狙って渡来人が来たとされていますが、何だかそれを補強するような伝承ではないでしょうか。孝霊天皇は実在の天皇ではないとされていますが、ある説では紀元前215年頃に亡くなった天皇だとも言われています。何だか梶谷実さんの説に真実性があるように思えてきました。

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(その18)で、『あくまでそれ(四隅突出型墳丘墓)の財源は吉備・瀬戸内地域との交易による富であり、墳丘墓の埋葬主体はそうした交易のリーダー格であった人達であると考えたいと思うのです。』と書きました。

それを裏付けるように、倭国大乱が収まり、邪馬台国と狗奴国との戦いも終わり、吉備に楯築(たてつき)遺跡が造られ、大和に纏向(まきむく)遺跡が造られる時代になると、四隅突出型墳丘墓はぱったりと造られなくなるのです。

このことが示すのは、倭国大乱とそれに続く邪馬台国と狗奴国との戦争が終わり、瀬戸内航路が復活すると、出雲経由吉備・瀬戸内地域への鉄資源・鉄製品の交易ルートからは、大きな富の集積が生み出されなくなったということではないでしょうか。

そして、高句麗系の商人や交易リーダー達の出雲への往来も減り、高句麗の積石塚古墳の流れを汲む特徴的な形をした四隅突出型墳丘墓は造られなくなったと考えられるのです。また、鉄資源・鉄製品の交易によって大きな富を得た出雲の交易リーダー達も次第にその勢いを失い、在来の農業開発や国土造成においての指導的リーダー達が、他の地域と同じように政治的指導者になっていったのです。

しかし、いったん目の当たりにした大型墳丘墓の威容は、富の象徴であろうと権威の象徴であろうと大きなインパクトを残したのです。そこで、その後に出雲の政治的指導者となった集団や、一族たちは、四隅の突出といった高句麗系の特徴は削ぎ落として、方墳という形の首長墓を作ることにしたのではないでしょうか。そして、方墳・前方後方墳という墳型が、その後の長い間、出雲の古墳のスタンダードとなったと考えられるのです。

一方で、倭国連合から初期大和政権へと推移した吉備・瀬戸内地域・畿内では、その一体感・連帯の誇示のために、出雲とは異なる首長墓である前方後円墳を作り始めたのです。このようにその頃の推移をたどって見ると、やはり出雲は倭国の一員ではなかったということになるのです。

しかし、先にも指摘したように、その時代に出雲が開拓した交易ルートによって、中国山地の安芸・備後から播磨に至るまでの地域に、出雲の影響力が深く刻まれたことは間違いないのです。そうした出雲の姿は、初期大和政権に対して様々な影響を与えたことでしょう。ある面では、出雲恐るべし。ある面では、出雲捨てがたし。ある面では、出雲の今後の動向やいかに、などといった複雑な思惑が出雲に対して付きまとうことになったのです。

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